生命力は流れて出ていくだけじゃなくて、逆に“満ちたものから注がれる”こともあります。人も自然も、生命力の少ない人やモノに、そっと力を吹き込むことができます。
その身近な方法として、第3話では、「日常の当たり前を見直す」知恵をお届けします。
水もまた、「加工食品」なのでしょうか?
私たちは、「加工食品」という言葉には敏感になりました。
スーパーマーケットで商品を手に取り、原材料表示を確認する姿は、今では特別な光景ではありません。
「何が使われているのだろう。」
「どのように作られているのだろう。」
そんなふうに、自分や家族の身体に入るものを意識する人は、以前よりも確実に増えてきたように感じます。
それは決して健康志向の人だけではありません。
より良いものを選びたい。
その小さな積み重ねが、自分らしい暮らしにつながることを、多くの人が少しずつ実感し始めているのではないでしょうか。
しかし、ここで一つ、素朴な疑問があります。
私たちは毎日飲んでいる「水」については、どれくらい意識しているでしょうか。
安全かどうか。
ミネラルウォーターが良いのか。
水道水が良いのか。
そこまでは考えることがあっても、その水がどのような道のりを経て自分のもとへ届いているのかを意識する機会は、意外と少ないように思います。
もちろん、水道水は法律に基づき厳しく管理され、安全に飲めるよう供給されています。その安心・安全は、日本の誇るべき技術によって支えられています。
しかし、滋味美動では、もう一歩だけ視点を変えてみたいのです。
もし食べ物に「加工食品」という考え方があるのなら、水にもまた、自然のままに近いものから、さまざまな工程を経て私たちのもとへ届くものまで、違いがあると考えることはできないでしょうか。
もちろん、それが良い・悪いという話ではありません。
大切なのは、その違いを知ったうえで、自分の暮らしに合った選択ができることです。
健康とは、特別なことを始めることではありません。毎日繰り返している当たり前を、ほんの少し見つめ直すこと。その積み重ねが、十年後、二十年後の身体をつくっていきます。
だからこそ、今回のテーマは「水」です。
毎日飲み、ご飯を炊き、お茶を淹れ、料理を作り、お風呂で身体を包み込む水。一日の中で、空気の次に多く身体に触れ、最も多く身体に取り入れている存在だからです。
そして、この「水」という視点から身の回りを見渡してみると、実は私が暮らす昭島市には、とても興味深い特徴があることに気付きました。
次は、その「水という日常品」の中に隠れている価値について、一緒に見ていきたいと思います。
蛇口の向こう側を考えたことがありますか?
一般的に都市部の水道水は、河川やダムなどを水源とし、浄水場で安全に飲めるよう処理されたあと、各家庭へ届けられます。
これは、多くの人が安心して水を利用できるよう築かれた、日本が世界に誇る優れた水道システムです。
一方で、水は生鮮食品のように「採れたて」という表現こそしませんが、自然の中から人の暮らしへ届くまでには、さまざまな工程を経ています。
食べ物であれば、畑で収穫され、運ばれ、加工され、店頭に並びます。水もまた、水源から取水され、必要な処理を施され、配水されるという道のりをたどります。
もちろん、それは安全でおいしい水を届けるために欠かせない工程です。しかし、その過程は地域によって少しずつ異なります。その違いが、水の個性につながっているとしたらどうでしょう。
実は、私が暮らす昭島市の水道水は、東京都内では少し珍しい特徴を持っています。
昭島市の水道水は、水源のすべてを地下水でまかなっています。
しかも、その地下水は、およそ30年という長い年月をかけて地層をゆっくりと通り抜け、自然にろ過された深層地下水です。
一般的な浄水場のように大規模な浄水処理を必要とせず、必要最小限の消毒を経て各家庭へ届けられています。
私は温泉地を訪れるたびに源泉調査書を読み、水がどのように湧き、どのような状態で利用されているのかを見てきました。
その経験を重ねるうちに、水は「成分」だけでなく、「どのような環境で育まれ、どのような道のりを経て届くのか」という視点も大切なのではないかと思うようになったのです。
そう考えるようになってから、毎日何気なく飲んでいた昭島の水道水が、私には少し違って見えるようになりました。
水はどんな道のりを歩んできたのだろう?
実は、私も以前は、水道水をそこまで意識していませんでした。
昭島市の水道水が100%地下水で供給されていることを知ったのも、今から約20年前のことです。当時は、「珍しいんだな」くらいの認識で、それ以上深く考えることはありませんでした。
また、昭島の水道水が都市の中で1位か2位の美味しさがあると知ったのは、2~3年前のことです。
毎月地方へ出張する際には、水が美味しいと評判の宿泊施設を調べて宿泊しており、十何年という歳月をかけて、各地の水を比較できる機会に恵まれました。
そして、「なぜ昭島の水は美味しいのだろう。」という理由についても、全国の温泉地を訪ね歩き、泉質だけでなく源泉調査書まで読むようになったことで、水を見る視点が少しずつ変わり、昭島の水の価値も、それまでとは違って見えるようになってきたのです。
昨年、バルネオセラピストの資格を取得してからは、その傾向はさらに強くなりました。
温泉は、成分だけで価値が決まるものではありません。
・どこから湧き出し、どのような状態で湯船まで届けられているのか。
・空気に触れる時間はどのくらいなのか。
・源泉から浴槽まで、どれほど自然に近い状態が保たれているのか。
そうした「道のり」そのものにも目を向けるようになりました。
そんなことを考えるようになると、ふと一つの疑問が浮かびました。
これは、水道水にも当てはまるのではないだろうか・・・。
野菜は採れたてが喜ばれます。
魚も鮮度が大切だと言われます。
では、水はどうでしょう。
もちろん、水は野菜や魚とは性質が異なります。しかし、自然の中から私たちの手元へ届くまでの「道のり」があることに変わりはありません。
私は、その道のりにも、水それぞれの個性が表れるのではないかと考えるようになったのです。
そして改めて、昭島の水道水がどのような道のりを歩んで家庭まで届いているのかを調べてみると、とても興味深い事実に気付きました。
昭島の水はどんな道のりを歩んできたのでしょう?
それでは、私が暮らす昭島市の水道水は、どんな道のりを歩んで家庭まで届けられているのでしょうか。
昭島市の水道水は、八王子の山地に降った雨水が地下深くに染み込み、長い年月をかけて育んだ地下水を水源としています。
地表に降った雨は、土や砂利、地層の中をゆっくりと通り抜け、およそ30年という時間をかけて自然にろ過されます。その地下水を、深い井戸からくみ上げ、水道水として各家庭へ届けています。
ここで私が興味を持ったのは、「どこで採れた水なのか」ではありません。
どのような道のりを歩んできた水なのか。
その一点でした。
一般的に都市部の水道水は、山地の源流水源から遠く離れた河川やダムから取水され、浄水場で飲める水へと処理されたあと、水道管を通って各家庭へ届けられます。

一方、昭島市の地下水は、自然の地層そのものが長い年月をかけて水を磨き上げています。
そして、必要最小限の消毒を経て各家庭へ届けられています。
私は、この違いを知ったとき、あることを思いました。
温泉では、源泉から浴槽までの距離や、空気に触れる時間が大切にされることがあります。それは、源泉から沸いた温泉は空気に触れた瞬間から鮮度が失われていく(=生命力が抜けていく)からです。
もちろん、水道水と温泉は目的も役割も異なります。
しかし、「自然の状態から、私たちの手元へ届くまでの道のり」という視点で眺めてみると、水にもそれぞれの個性があるのではないかと思うようになったのです。
だから私は、昭島の水道水を飲むたびに、「蛇口から出てきた水」とは考えません。
三十年という時間をかけて地層を通り抜け、ようやくここまで届いた自然のままの水をいただいている。
そんなふうに感じるようになりました。
「鮮度」という見方はできないでしょうか?
ここからは、私自身が温泉を研究する中でたどり着いた、一つの考え方です。
科学的に証明された結論ではなく、「私はこんな見方をするようになりました」というお話として読んでいただければ幸いです。
食べ物は、新鮮なほどおいしい。これは、多くの人が自然に受け入れている感覚ではないでしょうか。
朝採れの野菜。
水揚げされたばかりの魚。
炊きたてのご飯。
私たちは、「新鮮」という言葉に価値を感じています。
では、水はどうでしょう。
温泉を調べていると、「源泉かけ流し」という言葉をよく目にします。
なぜ源泉かけ流しに価値があるのでしょうか。
私は、源泉そのものの成分だけではなく、大地から湧き出した生命力あふれる状態に、より近いまま利用できることにも意味があるのではないかと考えるようになりました。
そう考えるようになると、水道水にも同じ視点を向けてみたくなります。
自然の中から生まれた水は、どのような道のりを歩み、どれくらい空気に触れ、どれくらいの時間をかけて私たちの手元へ届くのでしょう。
もちろん、水道水は安全に飲めるよう適切に管理されています。
それは大前提です。
しかし、「安全」とは別に、水が歩んできた道のりにも目を向けてみると、また違った景色が見えてくるように思うのです。
私は、その道のりを「水の鮮度」という言葉で考えるようになりました。
これは食品の鮮度と同じ意味ではありません。
自然の中で育まれた水が、どれだけ自然に近い状態を保ったまま私たちの暮らしへ届いているのか。
そんなイメージを、自分なりに「鮮度」という言葉で表現しています。
「道のり」が違えば見え方も変わります。
それでは、その「水の道のり」という視点で、昭島市の水道水を眺めてみましょう。
昭島市の水道水は、約30年という時間をかけて地層をゆっくり通り抜けた地下水が水源です。
その水は深い井戸からくみ上げられ、必要最小限の消毒を経て、各家庭へ届けられています。


私が興味を持ったのは、成分表ではありません。
「どれだけ自然に近い状態で家庭まで届けられているのだろう。」
その一点でした。
温泉の世界では、源泉から浴槽までの距離が短いことや、湧き出した状態をできるだけ保つことを大切にする考え方があります。
もちろん、水道水と温泉は目的も利用方法も異なります。しかし、「自然の状態をできるだけ保ちながら届ける」という視点だけを取り出して考えてみると、昭島の水道水には、とても興味深い特徴があるように思えました。
私は、それを「水の鮮度」という比喩で捉えています。
もちろん、これは科学的な評価ではありません。
私が温泉を学び、各地の水に触れる中で、自分なりにたどり着いた一つの見方です。
だから私は、昭島の蛇口から流れる水を見るたびに、「水道水」という言葉よりも、「三十年という時間をかけて大地が育んだ生命力あふれる地下水」というイメージを思い浮かべます。
そのように考えるようになってから、毎日飲む一杯の水が、以前より少しだけ豊かに感じられるようになりました。
当たり前は見直した瞬間に価値へ変わります。
私たちは、新しい健康法や話題の商品には興味を持ちます。けれど、本当に毎日身体を支えているものほど、意外なほど意識していません。
一日に何度も口にする水。
料理に使う水。
お風呂で身体を包む水。
あまりにも身近だからこそ、「そこにあるのが当たり前」になっています。
だから今回、私は昭島の水を紹介したかったのではありません。「水を見る視点」を紹介したかったのです。
これまで何気なく蛇口をひねっていた人が、
「この水は、どんな道のりを歩んできたのだろう。」
そんなことを一度だけ考えてみる。
それだけでも、昨日までとは少し違う日常が見えてくるかもしれません。
滋味美動が大切にしているのは、特別な健康法ではありません。
毎日の暮らしの中にある、小さな価値を見つけ直すことです。その積み重ねが、身体を育て、心を育て、やがて自分らしい人生を支える土台になっていく。私は、そう考えています。
「健康」とは、何かを新しく足していくことだけではありません。すでにあるものの価値に気づくこと。その視点を持つだけで、日常は少しずつ豊かになっていきます。
今日、蛇口から流れた一杯の水も、その一つなのかもしれません。

