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人類の進歩に“手作り”は不要、むしろ邪魔なだけ?

~~食事の機械化がもたらす人類史上最上の幸福と最大の弊害

”手作り”は
科学的には完全に全く価値ナシ

「手作りの料理は身体にいい」

おそらく、多くの人がなんとなくそう思っているのではないでしょうか。

無農薬で育てた野菜。
自然に近い環境で育てた穀物。
余計なものを加えていない肉や魚。
化学調味料を使わず、添加物もできるだけ避ける。
そして、
それらを自分の手で一から調理して食卓に並べる。

こうした食生活には、どこか「健康的」「丁寧な暮らし」「身体を大切にしている」というイメージがあります。

私自身も、以前はそう考えていました。しかし、今回あらためて考えてみると、どうも話はそれほど単純ではありません。

むしろ、これからの人類にとって、

「手作り」という行為そのものが、本当に必要なのだろうか。

そんな疑問が浮かんできたのです。

まず、最初にはっきりさせておきたいことがあります。

私は、「添加物を食べれば病気になる」とか、「手作り料理を食べれば健康になる」という単純な二元論を支持しているわけではありません。

そんな理屈が成立するなら、化学物質を利用した医薬品まで否定することになってしまいます。

人類がこれほど長く生きられるようになった背景には、衛生環境の改善だけでなく、化学と医学の発展、そして医薬品の進歩もあります。

したがって、人工物だから悪い。自然だから良いという考え方では、現代の健康を語ることはできません。

食品についても同じです。

栄養学的に必要な栄養素が十分に摂取でき、衛生的に製造され、安全性が確保されている食品であれば、「手で作られたか、機械で作られたか」だけを理由に健康への優劣を決めることはできません。

では、機械で作られた食品はどうでしょうか。

ここからが、私にとって非常に興味深いところです。

考えてみれば、料理ほど機械化によって時間を短縮できるものはありません。

食材を洗う。
切る。
煮る。
焼く。
味付けする。
盛り付ける。

そして食べ終われば片付ける。

さらに料理には、それ以前の仕事があります。

冷蔵庫を開けて、何が残っているか確認する。
今日何を食べるか考える。
足りない食材を調べる。
スーパーへ買いに行く。

あるいはネットスーパーの画面を開き、商品を探して注文する。

献立を考えることも、立派な時間です。

もし、これらを機械が代わりにやってくれたらどうでしょう。

料理そのものにかかる時間を数分まで短縮できる。朝・昼・晩の三食なら、それだけで一日数時間近い時間が戻ってくることもあります。

さらに、献立を考え、冷蔵庫の中身を確認し、ネットスーパーの商品を比較し、買い物をする時間まで減らせる。

仮に、調理と食材調達・献立決定などに一週間で23時間を費やしていたとすれば、それがほぼ不要になる。

週23時間。

一か月なら、およそ100時間。一年なら、1,000時間を超えます。

これは、単なる「家事の短縮」ではありません。

人生そのものの時間が戻ってくる。

そう考えると、食品の機械化は恐ろしいほど大きな文明的価値を持っています。

ここは非常に重要です。

人間が豊かな生活を求める理由は、単純に「生きるために必要なものが全部揃っているから」ではありません。

衣食住が揃っていても、それだけで豊かな人生とは言えません。

人間が本当に欲しいものは、

「自分の時間を、自分の意思で何に使うかを選べること」

ではないでしょうか。

旅行に行く。
趣味をする。
本を読む。
家族と過ごす。
友人と会う。
仕事をする。
何もしない。
新しいことを学ぶ。
あるいは、突然思い立って、どこかへ出かける。

人生には無数の選択肢があります。

そして、その選択肢の中から、自分が好きなものを選ぶためには、「時間」が必要です。

だから現代社会において、余暇とは単なる「余った時間」ではありません。

人生における自由選択のための時間です。

そう考えれば、食事の機械化がもたらす価値は極めて大きい。

料理を機械に任せることによって、人間は人生で最も欲しい、

「余暇のための時間」

を作り出すことができるのです。

だから私は、ここではあえて厳しい言い方をします。

もし家事を「労働」と考えるのであれば、毎日の手作り料理を人間に強いることは、人生の貴重な時間を奪うことでもあります。

朝食を作る。
弁当を作る。
夕食を作る。
食器を洗う。
そして、また翌日の献立を考える。

これを365日、何十年にもわたって繰り返す。

それは、決して小さな仕事ではありません。

しかも問題なのは、その時間が「食事を作っている時間」だけではないことです。

何を食べるかを考え、冷蔵庫の中身を確認し、足りない食材を調べ、買い物をし、調理し、片づける。

一つひとつは数分、数十分の小さな作業でも、それが毎日積み重なれば、人生の中から相当な時間が消えていきます。

もし、その仕事を機械が数分で終わらせられるようになるのであれば、人間がその仕事を手放すことは、むしろ文明の進歩ではないでしょうか。

手作りを美徳として他人に強制することは、場合によっては「最大級の時間搾取ハラスメント」と呼んでもいいのではないか。

私は、あえてそこまで考えてみたいのです。

「機械化すると人間らしさが失われる」という論調は、昔から繰り返されてきました。

しかし、私はむしろ逆だと思います。

機械化によって、人間を「生存のための労働」から解放できる。

そして、その先にあるのは、人間が自分の人生を自分で選択するための時間です。

先日、サントリー天然水 北アルプス信濃の森工場を見学しました。

私がそこを訪れたのは、地下からくみ上げられた天然水が、どのような工程を経て私たちの手元に届くのかを、自分の目で確かめてみたいと思ったからです。

この工場は、北アルプス・餓鬼岳のふもとに2021年5月に開設された、「サントリー天然水」の国内4カ所目となる生産拠点です。

こちらの工場でしか4種類の天然水をまとめて購入できないのです。左から、中部四方に主に流通している北アルプスの天然水、こちらの工場で生産されている天然水です。右側が関東より東に流通している南アルプスの天然水。
関西に流通している奥大山の天然水、九州に流通している阿蘇の天然水

そして驚いたことに、ここは一般的な飲料工場とは少し違います。

北アルプスの天然水を製品化するための工場なのです。

水源となっているのは、北アルプスの豊かな自然環境の中で、約20年という長い歳月をかけて地下深くまで浸透し、地層によって自然に磨かれた地下水です。

そもそも「天然水」とは何なのか。

テレビCMなどの印象から、川の水をそのまま汲み上げていると思っている方もいるかもしれません。

しかし、そうではありません。

雨や雪として降った水は、長い年月をかけて地中へゆっくりと浸透していきます。

その過程で地層を通り抜け、ミネラルなどを取り込みながら、自然のろ過作用によって磨かれていく。

そうして地下深くに蓄えられた水が、天然水の水源となっています。

北アルプス・餓鬼岳周辺では、雨や雪解け水が地層へ染み込み、およそ20年という歳月をかけて地下深くへ到達します。

白い花崗岩が堆積するエリアなど、北アルプス特有の地層を通ることで、清らかで澄んだ水へと磨かれていくのです。

つまり、そこにある水は、工場で人間が作り出したものではありません。

自然が20年かけて作ったものです。

そして、私が工場見学で特に驚かされたのは、ここからでした。

地下水を地上へくみ上げた後、その天然水を製品化する工程では、一般的なイメージにあるような塩素による消毒ではなく、水蒸気によって高熱になった配管に天然水を一瞬通すことでの滅菌処理する方法が採用されていることを説明していただきました。

さらに私が強く印象に残ったのは、水源からボトルに封入されるまで、天然水を外気に触れさせないというサントリーの徹底した製造に対するコンセプトでした。

純粋な天然水は、人工的な処理が施されている水道水よりも劣化が早いため、自然の力で育った天然水をありのままの状態のナチュラルウォーターとして製品化するには、いかに空気に触れさせないことが大切だという話を聞かせていただきました。

地下深くで約20年かけて自然に磨かれてきた水を地上へくみ上げる。そこから製造工程に入り、処理され、ボトルに充填され、封をされる。そして、私たち消費者がキャップを開ける。

その瞬間まで、外の空気に触れさせない。

「できるだけ空気に触れさせない」というレベルではありません。天然水が本来持っている状態を崩さないために、水源から製品として封入されるまで、外気との接触を徹底的に排除する。

そのために、工場そのものが設計されているのです。

水源から製品化されるまで一切外気に触れさせない、劣化を完全に防ぐ、ここまでやるのか。私は、正直そう思いました。

しかも、そのために巨大な設備と高度な製造技術が投入されています。

そして、水源からのくみ上げ、製造、製品の検品、そしてトラックへの積み込みに至るまで、工程の大部分が自動化されています。

実際に見学してみると、人間が一つひとつ水を扱っているというより、高度に設計された機械とシステムそのものが、一つの大きな製造装置として動いているように見えました。

そして、案内してくださった方のお話からも感じられたのは、この徹底した品質管理そのものが、サントリーにとっての大きな誇りだということでした。

私は以前、「滋味美動」の第三話で、昭島の水道水について書きました。

昭島の水道水は、地下水をできるだけ空気に触れさせずにくみ上げ、そこから配水されていく仕組みを持っています。

そのため、私は昭島の水道水が、一般的な水道水というイメージとは少し違い、非常に天然水に近い性質を持っていることを紹介しました。

しかし今回、北アルプスの天然水を製品化する現場を実際に見て、さらに驚かされました。

自然が20年かけて作った水を、その状態を崩さず、機械と技術によって徹底的に管理し、そのまま消費者の手元まで届けようとしている。

そこには、私がそれまで抱いていた「自然なものは人間の手で扱ったほうがいい」というイメージとは、まったく違う世界がありました。

むしろ、人間の手を減らし、機械化することでしか実現できないほどの精密さがある。

人間が手をかけることが、必ずしも品質を高めるわけではない。

人間の手を介さないことによって、自然の状態を守れる場合すらある。

この事実は、今回の「手作り」というテーマを考えるうえで、とても大きな意味を持つことになりました。

なぜなら私は、この工場を見学したことで、

「機械化されたものだから、人間が作ったものより劣る」

という考え方そのものを、一度捨てなければならなくなったからです。

むしろ、機械だからこそできる。

人間にはできないほど正確に。
人間にはできないほど衛生的に。
人間にはできないほど徹底的に。

そして、自然が長い年月をかけて作ったものを、できるだけそのままの状態で届けるために、機械化を極限まで突き詰める。

私は、この工場を見学するまで、そこまでの世界を具体的には想像していませんでした。

そして、この経験が後に、「では、食品についてはどうなのだろう?」という疑問につながっていったのです。

食品工場が完全に自動化され、栄養設計された食品を無人の機械が製造し、保存技術によって品質を維持し、それを必要なときに数分で食べることができる。

それが安全で、おいしく、栄養学的にも十分な食品であるなら、

いったい何が悪いのでしょうか。

むしろ私は、そこまで進んでほしいと思います。

さらにAIまで加われば、献立を考える必要すらなくなるでしょう。

冷蔵庫の中身、健康状態、仕事の予定、睡眠時間、運動量、好み、予算などをAIが把握する。

その日の食事を自動的に決める。
必要な食品を自動的に注文する。
そして、
調理まで機械が行う。

食事に必要だった「考える」「選ぶ」「買う」「作る」「片づける」という一連の作業から、人間が解放されていく。

今世紀に入ってから、私たちは「人間が食事を作る」という、何千年も続いてきた作業を、本格的に機械へ渡し始めました。

そして私は、あと数年から十数年という単位で、食事に関する「面倒な作業」の大部分をAIと機械が引き受ける時代が現実になっても、まったく不思議ではないと思っています。

それは、人類の退化ではありません。

むしろ、

「生きるために必要だった労働から人間を解放する」

という、人類が長い歴史の中で少しずつ実現してきた文明の方向、その延長線上にあるものです。

そして、もしそれによって、一日の中に数時間もの「自由に使える時間」が生まれるのであれば、それは単なる家事の効率化ではありません。

仕事をする。
家族と過ごす。
旅行に行く。
趣味を楽しむ。
身体を休める。
人と会う。
何もしない。

あるいは、これまで知らなかった何かを始めてみる。

人間が自分の人生について、より多くの選択肢を持てるようになる。

それこそが、機械化が人類にもたらす最大の幸福なのではないでしょうか。

では、

手作りなど本当に必要ないのか?

ここまで読んで、「そうだよね」と思われた方も多いのではないでしょうか。

私も、ここまではそう思います。

手作り料理が機械料理より栄養学的に優れていると、最初から決めつける根拠はありません。

食品を機械が作ったからといって、それだけで身体に悪いとも言えません。

むしろ機械化された食品のほうが、衛生管理や品質管理、栄養設計、保存性、調理時間など、多くの面で人間の手作業を上回る可能性があります。

そして何より、人間に時間を返してくれる。

これは、とても大きな価値です。

だから私は、

手作りなど、もう全く必要ない。

とさえ思えてきます。

むしろ、何千年も人間が料理に費やしてきた時間を考えれば、

「なぜ、もっと早く機械に任せなかったのだろう」

と思うほどです。

ところが――。

ここから話が、まったく違う方向へ進みます。

ここで、一度立ち止まって考えてみたいのです。たしかに、機械化によって自由な時間は増えます。

しかし、その自由な時間を使える身体があるでしょうか。

旅行に行きたい。
でも腰が痛い。

趣味を楽しみたい。
でも身体が重い。

仕事を早く終わらせた。
でも帰宅したら、もう何もする気力がない。

休日になった。
でも一日寝て終わってしまった。

家族と出かけたい。
でも膝が痛い。

友人と会いたい。
でも疲れてしまう。

せっかく人生の自由時間が増えても、身体がついてこなければ、その自由を使うことができません。

つまり、「自由な時間があること」と「自由に生きられること」は、同じではない。

ここで、私は以前の記事で書いたことを思い出します。

健康を支える最重要ポイントは、結局のところ「体力」なのではないか、と。

ここまで読んで、こう思われた方もいるでしょう。

「だったら、体力をつければいいだけじゃないか」

私も、最初はそう考えていました。

体力が不足しているのなら、栄養価の高い食事を摂ればいい。できるだけ質の良い食材を選び、栄養バランスを整え、身体に必要なものを十分に補えばいい。

それなら話は簡単です。

ところが、ここから先に、私自身が予想していなかった問題が出てきます。

体力をつける。そのために栄養を摂る。

一見すると、ごく当たり前の話です。

しかし、もし体力が単純に「食べ物から補充できる成分」ではないとしたら――。

私がこの疑問を考えるきっかけになったのは、意外にも施術現場ではなく、ある大手製薬会社の研究所見学でした。

そこで目にした、たった一つの言葉が、私の「食と健康」に対する考え方を大きく変えることになります。

そして、話は思わぬ方向へ進みます。

「そもそも、体力とは食べ物に含まれている“成分”なのでしょうか?」

この問いを考え始めたことで、私がそれまで当たり前だと思っていた「食べれば体力が戻る」という考え方は、少しずつ崩れていきました。

骨格矯正の仕事を始めて、今年で26年になります。

私の施術は、首や肩、腰、足など、局所的な痛みを抱える方に寄り添い、その痛みを和らげることから始まります。

しかし、痛みを取ることだけが目的ではありません。

私は常に、その先――再発を防ぐこと、そして症状が出る前の状態に戻すだけではなく、今まで以上に元気な身体を作ること――に目を向けてきました。

ところが、長年この仕事をしていると、骨格矯正だけでは十分に対応できないケースに出会います。

疲れが取れない。
身体がだるい。
どこがどう痛いのかわからない。
首も肩も腰も膝もつらい。
何をしても回復しない。

そんな状態です。

私は臨床を通じて、骨格矯正だけでは、体力の消耗が激しい人に十分な効果を発揮できない。という現実に何度も直面しました。

自律神経に着目した施術を取り入れても、基礎体力が不足していれば、その効果には限界があります。

つまり、どれほど優れた施術技術があったとしても、それを受け止める身体そのものに余力がなければ、十分に生かすことができない。

だから私は、「では、体力を取り戻すにはどうすればいいのか?」という課題を、もう、ずいぶん前から抱えていました。

普通に考えれば、答えはやはり、とてもシンプルです。

常識的には、栄養バランスの取れた食事をする、必要な栄養素を摂る、体を構成している材料を供給する、あたりが妥当なところです。

それで体力が回復する。これは、誰もが疑いもしない常識です。私も、以前はそう考えていました。

しかし、先述した創薬について学ぶ機会があり、ある大手製薬会社の研究所を見学した際、私の考えを揺さぶるような言葉に出会ったことで、180°考えが変わりました。

その言葉とは、

――「減った物質をもとの量に戻す薬や食材は、未だ発見されていない」――

この言葉が実際にどのような研究上の文脈で使われたものなのか、私はここで医学的な一般論として断定するつもりはありません。

ただ、私にとって、この言葉は非常に大きな意味を持ちました。

なぜなら、「身体に不足しているものを補えば、身体は元気になる」という、それまでの私の食に対する考え方を、一度立ち止まって考え直すきっかけになったからです。

栄養素を補うことと、「身体そのものの力が戻ること」は、本当に同じなのでしょうか。

ここで私は、体力という言葉を、もう一つ別の言葉に置き換えてみました。

それが、生命力です。生命力という言葉は、我々が良く知る医学の世界でも普通に使われる単語ですが、西洋医学はその言葉で終点です。

この先の体力に関する説明も謎解きも存在しません。

ところが東洋医学の視点から見ると、この問題はきわめて自然に説明がつきます。なぜなら、東洋医学では生命力のことを“気”と呼ぶからです。

つまり、体力=生命力=気。この公式がそのまま成り立つわけです

元の気。

生命力が満ちている状態を、私たちは昔から「元気」と呼んできました。もちろん、これは漢字から導いた思想的な説明であって、現代医学的な定義ではありません。

しかし東洋医学は、現代医学とは違う方法で、長い時間をかけて人間の身体と薬物、食物との関係を観察してきました。

『神農本草経』は東漢期の最古級の本草書で、365種類の薬物を収載したとされています。 (PMDA)

これは現代の臨床試験ではありません。

対照群があり、ランダム化され、統計学的検定を経た研究でもありません。だから、これをそのまま「現代医学と同じ意味で科学的に証明された」と言うことはできません。

しかし、

人間が何を食べ、何を使い、身体にどのような変化が起こったのかを長い年月にわたって観察し、その経験を分類してきた知識体系

であることは確かです。

現代医学と東洋医学は、同じ方法で身体を見てきたわけではありません。

だからこそ私は、

「科学的に証明されていない」ことと、「人間が長い年月をかけて蓄積してきた経験に意味がない」ことを、同じものとして扱う必要はない

と考えるようになりました。

では、生命力をどう養うのでしょうか。

特別な薬を飲むのでしょうか。
特別な成分を摂るのでしょうか。
特別な健康法を始めるのでしょうか。

私は、もっと身近なところに答えがあるのではないかと思っています。

その一つが、食事です。しかし、ここで重要なのは「何を食べるか」だけではありません。

ここで私は、もう一度「手作り」という言葉に戻ってきます。

では一体、手作りは何が一番の問題だったのか?このことに関しては、ここまで読んでいただければ、もうおわかりでしょう。手作り料理には、確かに大きな問題があります。

それは、一日の中で多くの時間を費やすことです

一日の中で、睡眠時間を除いた、職業を含めた生きるためのあらゆる労働時間は短く、余暇に多くの時間を獲得できている状態こそ、ワークとライフのバランスがうまく取れる条件他ないからです。

自由を満喫するという幸福を味わうには、絶対的に”多くの時間がある状態”という基礎が必要なのです。

だから私は、前半で徹底的に手作りを否定しました。

機械に任せればいい。
レトルトでもいい。
冷凍食品でもいい。
電子レンジで数分で食べられるなら、そのほうがいい。
その浮いた時間を、自分の人生に使えばいい。

この考え方は、今でも変わりません。

だから私は、「手作り料理のために自由時間を犠牲にしなさい」とは言いません。むしろ、そんなことをする必要はないと思います。

では、なぜ私は「手作り」にこだわるようになったのでしょうか。

ここからが、今回の話の一番大きな転換点です。

「手作り」には隠された、もう一つの意味があるのです。

以前、天然水について学んだ際に、非常に印象に残った話があります。

地下水は、地下にある間と、地上に出て空気に触れた後では、同じ水でも置かれている環境が変わります。

空気、光、温度、時間。

水は採取された瞬間から、即座に保存という別の段階に移行する必要性があります。

この話から、私は食物について考えるようになりました。

たとえば、木になっているトマト。

それを収穫する。
切る。

断面が空気に触れる。
加熱する。
味付けする。
保存する。

こうして食物は、自然に存在していた状態から、少しずつ別の状態へ変化していきます。

もちろん、ここで「空気に触れた瞬間から生命力が失われる」と科学的に証明されたと言いたいわけではありません。

「空気に触れた瞬間から劣化が始まる」のは確かですが、その“劣化”が生命力が失われることと同等にできる、そのような証明はありません。

ですから、ここから先は、私自身の仮説です。

私は、生命力というのは、満ちているところから、空(アキ/カラ)の方向へ静かに流れ出す性質があるのではないか。

そう考えると、生命力が空である無機物に囲まれて暮らすということは、気づかないうちに生命力が吸われていく、ということにつながります。

人工のアラーム音で目を覚まし、朝食には大量生産された加工食パンを口にし、金属の車や電車に乗って通勤し、コンクリートに囲まれ、昼食は外食かコンビニ、帰宅後は出来合いのお惣菜や電子レンジ調理、あるいはファストフード。

食後はスマホを開き、SNSや動画、ゲームに没頭し、ブルーライトを浴びながら眠りにつく――。こうした一つひとつは、現代ではごく普通の光景です。

しかし、その「当たり前」の積み重ねの裏で、生命力はゆっくりと、しかし確実に流れ出していきます。

一日ではほんのわずかでも、それが一年、五年、十年と積み重なれば“ちりも積もれば山となる”のと同じです。

気がついたときには、慢性的な疲れや回復力の低下、気分の落ち込み、すっきりしない眠り、食欲不振、お腹の便の滞りなど、いろいろな形で体に現れてきます。

これらは年齢やホルモン、体調の乱れといった原因が語られがちです。

しかし、もしかしたら根底には、生命力の慢性的な枯渇が隠れているのかもしれない。

生命力が枯渇する。

もし、この状態を現代医学でいう「老化」という現象と重ねて考えるなら、私には一つの共通点が見えてきます。

それは、身体が本来持っている「形を保つ力」が少しずつ失われていくことです。

東洋医学の考え方では、生命力は「気」と深く結びついています。

気が充実している身体は、外見的にも内面的にも、ハリを保ちやすい。

逆に、生命力が不足していけば、身体の張りや活力が失われ、顔のハリやツヤがなくなったり、ウエストや下腹部の形が崩れてポッコリ出たり、若いにも関わらず、体重が落ちにくくなるなど体型を崩しやすくなったり。

もちろん、これらを「生命力の減少だけが原因だ」と科学的に説明することはできません。

しかし、私は長年、人の身体を見てきた経験から、こうした変化を単なる美容上の問題として片づけることには、少し違和感を覚えています。

若い頃には多少食べ過ぎても、少し休めば元に戻った身体が、30代、40代と年齢を重ねるにつれて、なかなか戻らなくなる。

疲れが抜けにくくなる。
身体が重くなる。
以前と同じ生活をしているのに、体型を維持することが難しくなる。

そして、それがさらに進めば、慢性的な体力不足を抱えたまま毎日を過ごすことになる。

そう考えると、「老化」とは、単に年齢を重ねることではなく、生命力を少しずつ失っていく過程として見ることもできるのではないか。

私は、そんな見方もできるのではないかと思っています。

そして、この考え方をさらに進めると、少し気になることがあります。それは、こうした生命力の減少が、必ずしも高齢者だけに起きているわけではないのではないか、ということです。

最近の若い世代を見ていると、幼い頃からスマートフォンやゲーム、動画、漫画、アニメなど、一人で完結できる時間が非常に多くなっています。

もちろん、それらが悪いと言いたいのではありません。

ゲームも漫画もアニメも、現代の文化として大きな価値があります。

しかし一方で、昔と比べれば、親や友人と直接顔を合わせて過ごす時間、外で身体を動かす時間、自然の中に身を置く時間など、人や自然と直接触れ合う機会そのものが少なくなっているのではないかとも感じます。

私たちアラ還世代が子どもの頃には、遊びに出れば、そこには人がいました。

誰かと話し、誰かと遊び、外を歩き、土や木や水に触れる。それが特別な健康法だったわけではありません。ただ、それが日常だったのです。

もし、生命力というものが、人や自然との直接的な触れ合いの中でも養われるのだとすれば、現代の子どもたちは、私たちの世代とは違う環境の中で成長していることになります。

そして、ここから先は、あくまでも私の仮説です。

幼少期から生命力を受け取る機会が少ない生活が長く続けば、慢性的に活力の乏しい状態が「普通」になってしまう人がいても不思議ではないのではないか。

その状態のまま成長期を過ごせば、成人した後も、少し忙しい勤務状態が長く続いただけで身体を壊したり、心身の余裕を失ったりする人が増える可能性も考えられます。

実際に若い世代のメンタルヘルスについては、さまざまな問題が指摘されています。

もちろん、それを「生命力の枯渇」だけで説明することはできません。

仕事、経済状況、人間関係、睡眠、社会環境など、原因は複雑に絡み合っています。

ただ、東洋医学の言葉に置き換えてみると、昔から使われてきた「元気」という言葉は、非常に興味深い意味を持っています。

「元の気」。

つまり、気が充実している状態を「元気」と呼んできた。

逆に、気が不足すれば、元気がなくなる。

これは医学的な「うつ病」の定義を説明するものではありません。

しかし、生命力が不足すれば、人は身体だけでなく、気力や意欲まで失いやすくなるのではないかという東洋医学的な見方には、長い歴史の中で繰り返し語られてきた理由があります。

私は、この視点を現代医学の代わりにしたいわけではありません。

むしろ、現代医学では説明しきれない「なんとなく元気がない」「疲れが抜けない」「身体が重い」「気力が湧かない」といった状態を考えるための、もう一つの視点として捉えています。

先ほどから述べているように、東洋医学では「気」は生命力と深く結びついた概念です。

そして現代的な言葉に置き換えるなら、私が施術の現場で感じてきた「体力」とも、かなり近いところにある。

気が不足する。
生命力が不足する。
体力が不足する。

この三つを完全に同じものだと科学的に断定することはできません。

それでも私は、長年、人の身体を見てきた経験から、この三つを別々のものとして考えるよりも、「人が元気に生きるための根本的な力」という一つの大きな概念として捉えたほうが、現実の身体を理解しやすいのではないかと思うようになりました。

そして、もし生命力が一方的に失われていくだけではないのだとしたら――。

ここで、もう一つの可能性が見えてきます。

もし、その関連性が成り立つならば、逆の考えも通用するのではないか。

すなわち、生命力は流れ出ていくだけじゃなくて、逆に“満ちたものから注がれる”こともあるという可能性―人も自然も、生命力の少ない人やモノに、そっと力を吹き込むことができる可能性です。

実際、施術の現場では、お客様に自分の生命力が注ぎ込まれ、それだけでお客様が元気になっていく姿を限りなく見てきました。

同じように、生命力溢れる人が生命力を注ぐことができるとすれば、人間の手で料理をするという行為には、単なる調理以上の意味があるのではないか。

生命力を持つ人間が、生命を持つ食材に触れ、切り、混ぜ、こね、火を入れ、味を整え、食卓に並べる。

その調理過程そのものが、空気に触れて劣化がはじまっている食材に、満ちた生命力を手で注ぎ込む行為になっているのではないか。

これは科学的事実ではありません。

むしろ、現代科学によって確認されている現象ではないことを、私は明確にしておきたいと思います。

それでも私は、この考え方を捨てることができません。

なぜなら、それが私が長年、人の身体を直接触ってきた中で感じてきたことと、どこかでつながっているからです。

もし、生命力というものが本当に存在し、生命から生命へ受け渡される性質を持っているのだとしたら――。

機械によって食材が処理される。
無人の工場で調理される。
機械によってパッケージされる。
機械によって運ばれる。

そして店頭に並ぶ。

そこではじめて人の「手」が商品に触れます。現代は、製造から運搬まで全く人の手を介さなくてもよい無人の機械化が一般的になっているのです。

そして人間は、それを電子レンジに入れて数分で食べる。

栄養学的には、素晴らしい食品かもしれません。
衛生管理もされている。
栄養バランスも設計されている。
保存性も高い。
時間もかからない。

だからこそ、私は前半でこれを徹底的に肯定しました。

人類にとって素晴らしい発明だからです。

しかし、生命力という別の尺度から見るなら、話は変わります。

機械そのものには生命がありません。無機物です。

だから私は、

生命力に満ちたものから、生命を持たないものへと移っていく過程で、何かが失われているのではないか。

と考えています。

そして、人の手が再び加わったとき、その失われたものを、人間の生命から補うことができるのではないか。

これは科学的に証明された理論ではありません。

私が「生命力」という概念から組み立てた仮説です。

しかし、もしこの仮説が正しいとするなら――。

ここで、最初の問いに戻ります。

手作りは、本当にただの時間の無駄だったのでしょうか。

私は、そうではなかったのかもしれないと思っています。

もちろん、機械化によって得られる自由時間は素晴らしい。その価値を否定する必要はありません。むしろ、これからも食品の機械化は進んでほしい。AIにも、もっと人間の面倒な作業を引き受けてもらいたい。

人間が料理をしなくても生活できる社会は、文明として歓迎すべきでしょう。

それでも、手作りを完全に失ってしまったとき、人間は何かを失う可能性がある。

それが、私の考える「生命力」です。

ここで、私はスローライフを送っている方に伝えたいことがあります。

毎朝、自分で朝食を作る。
季節の食材を買う。
自分で包丁を握る。
鍋に火を入れる。
料理ができるまで少し待つ。
食卓に料理を並べる。
誰かと一緒に食べる。

こうした生活は、機械化された現代社会から見れば、とても効率が悪いものです。

「そんなことに時間を使うなんてもったいない」

そう言われるかもしれません。

確かに、その通りです。その時間があれば、別のことができます。

旅行にも行ける。
仕事もできる。
趣味もできる。
スマートフォンを見ていることだってできます。

だから、手作り料理は「時間」という尺度だけで見れば、明らかに不利です。

それでも、あなたが続けてきたのなら。

もしかすると、あなたが時間をかけて作ってきたものは、料理だけではなかったのではないでしょうか。

あなた自身の生命力だったのではないでしょうか。

ここで、私は「今日から手作りを始めましょう」と言いたいわけではありません。

むしろ逆です。

すでに手作りをしている人は、そのままでいい。

毎日の食事を自分で作る。
旬のものを食べる。
誰かのために料理する。
誰かと食卓を囲む。

そんな、ごく普通の生活を続けていればいい。

それは、特別な健康法ではありません。高額な健康食品でもありません。難しいトレーニングでもありません。ただ、昔から人間が普通にやってきた生活です。

その「普通」の中に、もしかすると私たちが忘れかけていた生命力を養う仕組みが残っているのかもしれません。

そして、それでも身体が疲れている。
肩や腰がつらい。
身体のあちこちが重い。
以前のように動けない。

そんなときには、食事だけにすべてを求める必要もありません。

温泉に入り、身体を温める。
自然の中で過ごす。
人と直接会って話す。
スマートフォンの画面越しではなく、同じ場所で笑い、食事をし、言葉を交わす。

そうしたこともまた、生命を持つ人間にしかできないことです。

私は、そうした「普通の生活」の中に生命力を養うものがあると考えています。

それが、私がこれまで「滋味美動」や「養気美動」で考えてきたことでもあります。

私はこれまで、施術によって身体の痛みを和らげ、動きやすい身体を作り、その結果として美しい姿勢や品のある所作が生まれることを大切にしてきました。

しかし、施術だけでは身体は完成しません。

身体を作るものが必要です。

それが食です。

そして私は、食について考えていく中で、単なる栄養素ではなく、「生命のあるものをいただき、自分の生命を養う」という考え方にたどり着きました。

滋味に満ちた食。
その食を、人の手で作る。
そして、それをいただく。

私は、その中に生命から生命へ受け渡される何かがあるのではないかと考えています。

だから私は、「施術によって生まれる美しい所作を完成させるための、命あるおいしい食」という理念を、「滋味美動(じみびどう)」という言葉に込めました。

生命力は、減っていくだけではない。
満ちたものから、満ちていないものへ。
自然から人へ。
人から人へ。

そして、食から身体へ。

私は、人の手による料理にも、そんな「生命力を満たす働き」があるのではないかと考えています。

これは、現在の医学や栄養学が証明した結論ではありません。

もちろん、長い歴史の中でのたった26年の私の経験なんてものは、砂粒にもならない年数ではありますが、人の身体に触れ続けてきた私が、食と身体と回復について考え続けた末にたどり着いた、一つの仮説ではあるのです。

だからこそ私は、滋味美動の食事で「手作り」を大切にしたいと思っています。

便利さを否定するためではありません。
機械を敵にするためでもありません。

むしろ、機械が人間に自由な時間を与えてくれる時代だからこそ、

人間にしかできない「生命を満たす営み」を、ほんの少しだけ残しておく。

その価値を、私は大切にしたいのです。

食べるとは、生きることそのもの。

そして、健やかに生きるとは、単に必要な成分を身体へ入れることだけではない。

生命をいただき、生命を養い、生命を次へ渡していくこと。

それが、人生の半分近く、身体と向き合ってきた私が、「滋味美動」という言葉に込めた、もう一つの意味なのです。

機械化は、人類の敵ではありません。

むしろ私は、人類がもっともっと機械化を進めていいと思っています。

料理を機械に任せていい。
買い物をAIに任せていい。
献立をAIに考えてもらっていい。
掃除も洗濯も機械に任せていい。

人間が何千年も「生きるため」に費やしてきた時間を、機械に返してもらえばいい。

そして、その時間を使って、自分の人生を選べばいい。

それは、人類が手に入れようとしている素晴らしい自由です。

ただし――。

自由な時間を手に入れることと、自由に生きられる身体を持つことは、別の問題です。

どれだけ時間があっても、身体が痛ければ旅行には行けない。

どれだけ休日があっても、疲れ切っていれば何もできない。

どれだけ長生きしても、身体を自由に動かせなければ、その人生の選択肢は狭くなります。

だから私は、もう一度「生命力」という言葉に戻ります。

これは現代医学によって証明された科学的概念ではありません。

手作り料理を食べれば生命力が増えるという科学的証明もありません。

機械で作った食品から生命力が失われるという科学的証明もありません。

それでも、

体力とは何なのか。

人間が元気であるとは、いったいどういう状態なのか。

この問いを考え続けたとき、私は「生命力」という言葉を無視できなくなりました。

そして東洋医学が長い歴史の中で、それを「気」という言葉で考えてきたことにも、改めて興味を持つようになりました。

私は、体力=生命力=気という考え方を、現代医学の公式として提示したいのではありません。

長年、人の身体に触れ続けてきた一人の施術者として、身体を考えるための一つの視点として提示したいのです。

そして、ここで少し興味深い現象があります。

近年、漢方への関心が高まっているように感じます。

大手ドラッグストアには、以前とは比べものにならないほど整った漢方相談のスペースが設けられ、医療機関でも漢方薬が処方される場面は珍しくなくなりました。

もちろん、これを「人々が生命力を求めているからだ」と断定することはできません。

化学的な医薬品だけに頼るのではなく、できるだけ自然なものを使いたい。

身体への負担を少なくしたい。自分の体質に合ったものを選びたい。そうした意識が背景にあるのかもしれません。

しかし、もし「体力=生命力=気」という視点を一度取り入れてみるなら、もう一つの見方もできます。

人は無意識のうちに、自分に不足しているものを補おうとしているのではないか。

漢方の世界では、「気」を補うことを目的とする処方が数多くあります。

もちろん、これだけで漢方薬の利用拡大を「生命力を補いたいという欲求」の結果だと説明することはできません。

けれども、現代人が「なんとなく元気が出ない」「疲れが抜けない」「身体が冷える」「体力が落ちた」と感じたとき、単に症状を抑えるだけではなく、自分自身の力を立て直したいと考えることは、決して不自然ではないでしょう。

そして、このことを日本人の生活文化という、もっと長い時間軸から眺めてみると、さらに面白いことが見えてきます。

日本列島では、縄文時代から自然と人間が密接に関わる生活が長く続いてきました。

山、川、海、植物、動物。

人間の生活と自然を切り離すのではなく、そのすべてを自分たちの暮らしの中に取り込んで生きてきた。

後世に「アニミズム」と呼ばれるような、自然やさまざまな存在に霊性を感じる世界観も、その長い生活文化の中で形成されてきたものと考えることができます。

もちろん、そこから現在の日本人に「自然から生命力を受け取るDNAが刻み込まれている」と科学的に証明することはできません。

しかし、もし仮に、人間が自然や他者との直接的な関わりの中で生きることを、何千年、何万年という長い時間をかけて「普通の生活」としてきたのだとしたら――。

そこから急激に生活環境が変わり、

人工物に囲まれ、
機械に囲まれ、
画面を通して人とつながり、
加工された食品を食べ、
自然に触れる機会が減っていく。

その変化が、人間の身体や心に何らかの影響を与えたとしても、不思議ではないのではないでしょうか。

私は、ここにも一つの仮説を置いてみたいのです。

生命力を与えてくれるものに囲まれて暮らしてきた人間が、生命を持たないものに囲まれて暮らすようになった。

その変化は、単に生活が便利になったというだけではなく、私たちが身体を維持するための環境そのものを変えてしまったのではないか。

だとすれば、現代人が感じている慢性的な疲労や体力低下を、単純に「年齢のせい」「運動不足」「栄養不足」とだけ考えるのではなく、

「生命力を受け取る生活そのものが減っているのではないか」

という視点から見直してみる価値はあるのではないでしょうか。

そして、ここまで考えてくると、私が「手作り」という言葉にこだわる理由も、少しずつ見えてきます。

そう考えると、手作りの意味も変わってきます。

手作りとは、

昔の生活に戻ることではない。
文明に逆らうことでもない。
まして、
機械化を否定することでもない。

時間を失ってでも、身体を養うことを選択する。

その選択には、もしかすると意味がある。

あなたが今まで何気なく続けてきた食事―
季節のものを食べること。
自分の手で料理すること。
人と一緒に食べること。

そして、ゆっくり湯につかったり、人と直接会って話すこと。

それらは、効率だけを基準にすれば、いくらでも機械に置き換えられるものです。

しかし、人間が本当に必要としているものが「時間」だけではないとしたら。あなたが時間をかけて作ってきたものは、料理ではなかったのかもしれません。

あなた自身の生命力だったのかもしれないのです。

だから、今までのあなたの暮らしを、無理に変える必要はない。むしろ、もう一度、その意味を見つめ直してみてください。

あなたが「なんとなく身体に良さそうだから」と続けてきたこと。

「面倒だけれど、自分で作ったほうがおいしいから」と続けてきたこと。

「今日は少しゆっくりしたい」と、時間をかけて食事を作ってきたこと。

それは単なる非効率な生活ではなかったのかもしれません。

機械化によって人類が時間を手に入れる。

その一方で、

人間は、自分の生命力を養うために、あえて時間を使う。

この二つは、矛盾しているようで、実はどちらも人間が自由に生きるために必要なのかもしれません。

そして私は、その「生命力を養うために使った時間」こそが、やがて身体を支え、健康寿命を生き抜き、最後まで自分の人生を自分で選ぶための力になるのではないかと思っています。

手作りは、人類の進歩を止めるためのものではありません。人類が手に入れた自由を、最後まで自分の身体で使い切るためのものなのかもしれないのです。