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養気美動<第2話>

古典的湯治の真価

身体を良くすることを考えるとき、私たちはつい「どうすれば早く治せるのか」と考えます。

一回で変化するのか、三回で済むのか、半年も通う必要があるのか。現代の施術業では、こうした「早さ」や「回数」が、施術を選ぶ一つの大きな基準になっています。

私自身も長くこの仕事を続けてきたからこそ、その価値観が生まれた理由はよく分かります。

けれども今回、塩原温泉のまじま荘で85歳の大先生の施術を受け、古典的な湯治を体験したことで、少し違う方向から身体を見るようになりました。

身体は、ただ「治す」ものなのだろうか。

あるいは、長い時間をかけて身体に積み重なったものを一つずつほどきながら、温泉や食、そして人の手から何かを受け取り、身体そのものを養っていくものなのではないか。

大先生の施術は、私自身の身体だけでなく、これまで私が考えてきた「施術の価値」そのものを考え直すきっかけになりました。

その体験から、古典的な湯治が持っていた意味と、現代の施術業が見失いかけているものについて考えてみたいと思います。

「治った」は、まだ「元気」ではなかった

今回の湯治体験のきっかけとなったのは、昨年10月に訪れた旅館まじま荘で、妻が大先生の施術を受けられなかったことを残念に思い、今年5月末に改めて予約を取り直し、何が何でも大先生の施術を受けた方がいいと私に体験させたことであった。

私は昨年の体験から、マッサージの技量については若旦那の施術で十分だと思っていたが、妻は以前から「一度は大先生の施術を受けた方がいい」とずっと考えていたようで、そこで今年、1泊2日の滞在中に一度だけ大先生の施術を受けることになったのだが、実際に受けてみると、確かな違いがあった。

一方で、山梨で120分のタイ古式マッサージを受けることには、正直なところ少々不安もあった。

私は昨年、個人ブログ『今年のカイダン』の記事で、高地ハイキングを楽しめるくらいまで頭痛が良くなったことを報告しているが、実際には、その時点までの5年間、毎日のように頭痛に悩まされており、頭痛がひどくなりそうな趣味はことごとくやめていたのである。

タイ古式を始める直前には、大阪の超有名カイロドクターの先生の治療に月2回、1年半ほど通っていたほどで、それでも思うような成果は得られなかった。

その後、たまたま大阪からの帰りに立ち寄った山梨のホテルで受けたマッサージが非常に良く、「ここにメンテナンスで通い続ければ、良くなっていくかもしれない」という期待を持つことができ、その後、実際に通い続けた結果として頭痛は改善していったのである。

最初の状態を10とすれば、7程度まで減った感覚であった。数字だけを見れば、10が1年間で7になっただけとも言えるが、日常生活の中では、この3の差が非常に大きい。以前よりかなり楽になれば、「治った!」という感覚に満たされることもある。

しかし、実際には0から見た7は、まだかなり重い状態である。時間が経過してその状態に慣れてくると、それが本来の感覚として認識されるようになり、忙しく過ごしていると、また元に戻ったように感じることも増えてくる。

気にしようと思えば気になるものの、仕事や日常生活に追われている間はあまり気にならない状態になるには、少なくとも5程度まで下がる必要があるのではないかと、これまでの経験から感じていた。

そして今年、その感覚が現実になった。10から7まで減っていた頭痛は、今度は0から見ても7という状態になり、最高にひどかった時期よりは軽いものの、毎日の頭痛に再び悩まされることとなったのである。

まさにそのタイミングで大先生の施術を受けたこともあり、その体験には大きな衝撃があった。施術後の約2か月間、頭痛は7から5程度まで減った状態が続き、感覚としては15年ほど前の、まだ頭痛が本格化する前の状態に近いところまで戻ったようにも感じられたのである。

ここで私は、「以前より良くなった」ということと、「本当に元気な状態になった」ということは、必ずしも同じではないのだと改めて感じた。

10から7になっただけでも日常生活はかなり楽になるため、人はそこで「治った」と感じることができるが、身体そのものから見れば、0から7という状態が残っている。

そして、時間が経過してその状態に慣れてしまえば、それが当たり前になり、忙しくなれば再び症状を強く感じるようになる。今回の頭痛の再燃は、そのことを自分自身の身体で確認する出来事でもあった。

40年前の傷を数回で消そうとすることの不自然さ

そして、そこでさらに驚かされたのが、私の頭痛の原因についての大先生の見立てであった。

大先生からは、その原因について一つの兆候を示唆されたのだが、その一つの兆候には私自身にもはっきりと思い当たることがあった。

高校生の時、趣味であった自転車ツーリングで、夜中、急な坂道を下っている際に、後ろから来た車を避けようとして出っ張った路側帯に引っかかり、大転倒したこと、スピード出し過ぎて自転車がすべりポールに激突し1回転して転倒、そのほかにも交通事故で追突されたことが2回、スキーの上級コースで激しく転げ落ちて首をひどく痛め、6か月間カラーを着け続けたことが1回ある。

振り返れば、これらの事故によってできた古傷を30年から40年近く抱えてきたことになるのである。

そして、頭痛にはその古傷がダイレクトに関係しているため、完治するまでには最低でも30回程度、まじま荘での湯治が必要だと言われた。

その原因が意外なところにあったことには驚いたものの、必要な施術回数については、それほど不思議には感じなかった。

なぜなら、私自身が骨格矯正の仕事をしている中でも、同じような経験を数多くしてきたからである。

例えば、50歳になって頭から足まで複数の症状を抱え、倒れる寸前のような状態で来店されるお客様がいるが、その原因をたどっていくと、20年前の出産後に生じた骨盤の開きがきっかけだったということがある。

そのような場合、20年間にわたって開いた状態で使い続けてきた身体を元に戻すには、週1回の施術であっても、お客様の要望に沿う結果を得たいのであれば、年単位の時間がかかると、私は初回のカウンセリングで説明している。

そう考えれば、40年近く前に生じた古傷について、私自身が30回程度の施術が必要だと言われたとしても、その考え方そのものには何ら不思議さを感じなかった。

むしろ、今回の説明を聞いていて、私がこの仕事を始めて5年ほど経った頃から、整体やリラクゼーションサロンが劇的に増加していった時代のことを思い出した。

当時から、施術そのものの価値よりも、「どれだけ早く治せるか」「何回で治せるか」という回数やスピードに価値が移っていく、現在につながる一つの傾向が生まれたように感じている。

それは、整体やリラクゼーションサロンが過剰供給と言われるほど増加したことによって生じた、経済の需給関係の中で生まれた価値基準だったのだと思う。

お客様の側からすれば、同じようなサービスが数多く存在するのであれば、「何回も通うところ」より「少ない回数で結果を出してくれるところ」に魅力を感じるのは当然であり、施術する側もまた、その要求に応えるために「早く治す」という価値を前面に出すようになったのだろう。

しかし、今回の自分自身の体験を通じて改めて考えてみると、難治性の症状を本当に5、6回程度で完治させられるのであれば、それはもはや民間療法という範囲を超え、医療として広く認められる可能性が出てくるはずである。

ところが現実には、そうした状況にはなっていないし、医療の一部になる可能性を示す兆候すら、私には見えていない。

私自身は、医学というものを考えるとき、少なくとも10人中6人程度が同じ方法によって良くなるというような再現性が確認され、一定の統一見解として成立していくことが重要なのだと考えている。

これは医学における正式な認定基準という意味ではなく、私が民間療法との違いを考えるうえで置いている一つの目安である。

逆に言えば、民間療法の中でも治癒に至る割合が10%以下で、一人ひとりの身体の状態に合わせたオーダーメードの施術が要求され、統一された見解が存在しない技術に、「数回で完治」という価値を持ち込むことには無理があるのではないかと思う。

それでいて、なぜ国家資格を有しない我々でも、この世界で仕事を続けることができるのか。

それは、我々の持つ技術がすべての人に同じように効果を発揮するからではなく、我々の持つ技術にぴったり適合するお客様に施術できているからであって、そこでは治癒率そのものが価値の中心になるわけではない。

医業類似行為国家資格者にしても同じだと思われる。彼らが使用する技術に当てはまる人が来れば改善に導くことができる。しかし、逆に当てはまらなければ、どれだけ回数を重ねても望む結果を出せないことにつながる。

この世界には「早く治せる」という価値が必ずしも存在しているわけではなく、「当てはまる人が来れば改善に導くことができる」ということこそが、医業類似行為やウェルネスの存在意義としての一つの価値なのだと、今回の体験を通じて改めて考えた。

そう考えると、40年前の古傷を抱えた私に対して、「5回で完治する」と言うのではなく、「本当に良くするのであれば30回は必要になる」と説明した大先生の言葉は、むしろ非常に誠実なものだったのではないかと思う。

少ない回数で劇的な結果を出すことだけを価値とする現在の風潮とは正反対に、長い年月をかけて形成された身体の問題には、それに見合った時間をかけて向き合う。

その考え方そのものが、今回の古典的湯治体験によって私が再認識した大きな価値の一つであった。

結局のところ、「早く」「少ない回数」という価値は、施術そのものの質を落とし続けている主要因の一つなのではないか。

そして、やはり今でも昔と同じく、「治せる」ということこそが本当の価値なのではないかと、今回の体験によって改めて思わされるのである。

施術にかかる真価が忘れられている現代

初めて1回目の施術を受けた時には、「良くなるのに4、5回」と言われていた。しかし、4回立て続けに施術を受け、実際に蓋を開けてみれば、もっとひどい状態であったと判明することは、私自身の施術でもよくあることであるから、不思議ではない施術後の説明であった。

ただ、残念に思ったのは、連続して30回というスケジュールを、今の私にはどうやっても確保できないことであった。老後になり、膨大な時間を自分のために使えるようになった頃でなければ、30回もの施術を連続して受けることは難しい。

大先生の施術を5回受けたことが、自分自身の快癒という意味では中途半端なところで終わってしまったことには、正直かなり残念な思いが残った。

しかし、大先生は、1回目の施術によって原因が少し良くなった状態から、元の悪い状態には戻っていないと言った。そして、大先生が提供する指圧技術は、一度成功すれば悪い状態に戻らない、もともとそういう技術なのだという自信を持って話された。

※イメージです

月1回、一泊して朝・晩2回の施術を受けるという形で、合格となる合計30回程度の施術を受けることができれば、相当良くなり、今まで悪くなった、元の状態まで戻ったという人はいないというのである。

この話を聞いていると、私は改めて「早期回復」という価値そのものを考えさせられた。大先生が45年間続けてきたものは、数回で結果を出すことを売りにした施術ではない。

長い時間をかけて身体と向き合い、一度良くなった状態を維持しながら、さらに良い状態を目指していくという、古典的な湯治そのものに近い考え方であった。

そして、その健康増進を実現するには、(当たり前ではあるが)健やかな体の状態――つまりは、若さや基礎的な体力の消耗を永遠に続ける根深いこりや健康診断の数値には現れることのない持続的な内科的な機能低下、慢性炎症などの未病から完全に脱出した状態、医学的に言えば完治の状態が最低限必要となるのだ。

さらに聞くところによれば、こちらで施術を受けた人の中には、有名俳優や誰もが知るスポーツ選手、政治家などの著名人もいるという。今でも北は北海道、南は九州から、ご新規様が紹介されてやってくるという現役ぶりである。

私は大先生に対して、「こういうすばらしい健康の理論を、なぜ大々的に宣伝しないのだろうか」と疑問に思ったのである。

しかし、4回の施術の中で話されていた内容の中に国家資格者の法令の話がたびたび出たことをまとめると、確かに、このような大きな結果を出せる技術を持つなら、大きく宣伝したい気持ちがずっとあるのは想像に難くないことがわかる。

にもかかわらず、宣伝しないのは、国家資格者ならでは事情によるものが大きい。

指圧師などの医業類似行為業は、もともと「治療する」「治る」という表現どころか、「改善する」と広告宣伝することもできないという。

つまり、大先生は経営者としてもその部分を徹底して守り、コンプライアンスを重視して営業してきたのである。それで45年間の営業を続けてきたという。

広告宣伝によって大きく技術を売り込むのではなく、誠実な施術の積み重ねが口コミとなり、それが次のお客様を連れてくるという流れが、45年間絶え間なく続いているのである。

ここで私は、以前に『医業類似行為の真実③―「治療」が「ウェルネス」に飲み込まれた日』というエッセイで書いたことを思い出した。

今回の大先生の施術を体験したことで、私は、その考え方をまさに現場で実践している施術者がここにいたのだと発見した。

治せます、指圧で治療しますと広告宣伝しなくても、現場レベルでしっかりとお客様の願いを叶えている。

その積み重ねこそが、結局のところ、この旅館の大人気につながっているのである。

治療目的の看板を掲げずに、本人が期待した以上の「治療的変化」が無名のサービスとして提供され、「この人のマッサージは他と全く違う!」という驚きが熱狂的な指名を生む古き良き施術者が、実際に現代まで生き残っていたのである。

温泉、食、施術―生命力を受け取るために身体を置く

今回、施術の前後に温泉につかる湯治を合計4回受けた結果、まず大きな再評価につながったのが、塩化物泉であった。

全国の温泉の中で、私がこれまで見てきた単純泉と塩化物泉は非常に身近な泉質であり、単純泉には意外にさまざまな成分パターンがあり、筋肉や関節に非常によく効く泉質も発見することができている。

一方で、塩化物泉については、これまではもう単純に「塩」という印象が強く、温めることに優れているため、冷え性や皮膚の保湿、飲泉による胃腸病への効果などは理解していたものの、筋疾患に対する効果については特に見いだせなかった。

ところが、施術と一緒に温泉につかるという形で体験してみると、その評価が大きく変わった。

施術と組み合わせるのであれば、塩化物泉ほど筋疾患に合う泉質はないのではないかと思えるほどの効果があったのである。

これは、温泉だけを評価していたときには見えていなかった価値であり、施術だけを評価していても見えてこなかった価値であった。

温泉と施術を組み合わせることで、初めて見えてくる身体への働きがあるのではないかということを、今回の体験によって感じたのである。

そして、もう一つ驚いたのが、施術理論そのものだった。

大先生は、内臓の機能を正しただけだと言う。私は最初、「まさか」と思った。

しかし、私自身にも確かに経験があった。慢性の背中の不調で悩んでいたお客様に胃腸内科を勧めたところ、医師から胃腸炎と診断され、薬物治療の結果、背中の痛みが嘘のように消えたということを後からご報告いただいたことがある。

また、施術してもらちがあかなかった腰痛持ちのお客様に慢性膀胱炎を内科で対応してもらうように勧めたところ、10年悩んだ腰痛がみるみる消えていったことを後からご報告くださったこともあった。

そういえば昔、そんなことがあったなあ、ということは、私自身もそうだったのかもしれないと考えたのである。

しかし、それは単純に内臓そのものを直接良くしているという話ではなかった。大先生は、内臓につながる経絡の緊張を和らげているのであって、内臓を直接揉みほぐすわけでもなく、また、ただ筋肉を柔らかくしているわけではない、完全に東洋医学をやっているのだという。

私は東洋医学を施術に一切使わない。そのため、先生の理論をすぐに理解することはできなかったのだが、実際に自分自身が施術を受けたことで、その理論を試してみたくなった。

そこで、親類に足が痛くて歩きづらさを覚えている男性がいたので、さっそく献体をお願いしてみた。そして、取り寄せた経絡図を見ながら、胆経・肝経・膀胱経で腰痛を支える筋肉と交差するツボを確認し、ノイロメーターで異常値を測ったうえで、ツボを正常化する施術を行ってみたところ、膝がピンと伸び、下肢全体が軽快になったと感じた親類は、最後にはぴょんぴょん跳ね回っていた。完全に不快感が消えたようであったのだ。

私はその姿を見て驚いたが、驚いたのは元気になった親類を見たからだけではない。膝は筋肉も関節も一切施術していなかったのである。それなのに、なぜか構造的にも機能的にも膝が元通りの健康状態になったのである。

ただただ内臓を良くするツボだけを揉みほぐしただけなのに、筋肉や骨格までもが整い、歩きづらさが劇的に良くなってしまい、大先生の言う通りであったことに驚いたのである。

さらに、そのツボの位置が、アナトミートレインのある型における主要筋の滞りをなくした位置と同じであったことにも驚きを隠せなかった。

この経験によって、私は自分の施術に欠けている部分が少し見えてきたように感じた。

これまで私は筋肉や骨格を中心に身体を見てきたが、高齢になればなるほど自然に弱っていく内科系を血液内の栄養・酸素と、滞りのない循環でダブル補強するという視点を加えることができれば、筋骨格的機能における健康寿命の延伸という、私が目標としてきたことにも大いに役立つのではないかと思うようになった。

緊張性頭痛、頚部疾患、膝痛、股関節痛、そして多くの人が患っていると思われる日々のQOLを下げる常時酸欠――健康法を十分に取り入れても疲労感に晒される不調状態、または、加齢と誤解される動きにおける機能が慢性的に発揮されない無自覚の半不健康状態などに対して、内臓の回復を原点とした統合的な施術を構築できる可能性は、私にとって非常に魅力的であり、今回の実験がうまくいったことを考えても、これは学ぶべき価値のある領域だと思うのである。

こうして温泉と施術を体験しているうちに、私は「湯治」というものそのものを、もう一度考え直すようになった。

湯治とは、単純に温泉に入ることではない。温泉につかり、食事をいただき、身体を休め、人の手による施術を受け、日常から離れた場所で一定の時間を過ごす。

そのすべてが一つにつながって初めて、湯治というものになるのではないかと思ったのである。

古典的湯治こそ生命力を受け取るための時間だった

そう考えると、今回の体験は、単に大先生の施術が良かったという話では終わらない。

新しい形の湯治スタイルを確立するには、まず古典的な湯治を知らなければならないということを、身をもって思い知らされる体験だったのである。

私はこれまで、現代の生活に合わせた新しい湯治の形を考えてきた。仕事をしている人でも参加できるように1泊2日や2泊3日という短い期間にして、温泉、食事、施術などを組み合わせることを考えてきた。

しかし、今回実際に古典的な湯治を体験してみると、昔の湯治には、現代の私たちが簡単に切り捨ててしまっている大切な部分があることが分かった。

それは「時間」である。

40年近く前の古傷を、4回や5回の施術でどうにかしようとするのではなく、必要であれば30回と時間をかけて向き合う。

毎月1泊して朝晩2回の施術を受け、それを1年続ける。温泉に入り、湯治向けの健康食をいただき、身体を休ませ、施術を受ける。その繰り返しの中で、少しずつ身体を変えていく。

現代では、「何回で治るのか」「どれだけ早く治せるのか」ということばかりが価値として語られやすい。

しかし、身体そのものは、そんなに都合よく時間を短縮してくれるものではない。長い年月をかけてできた身体には、長い時間をかけて向き合うという考え方があってもいい。

そして、今回の体験で私がもっとも強く感じたのは、古典的な湯治とは「身体を治すための場所」だけではなかったのではないかということである。

温泉から受け取るものがある。食から受け取るものがある。人の手から受け取るものがある。そして、その土地に滞在する時間そのものから受け取るものがある。

そう考えると、湯治とは、自分の力だけで身体を何とかしようとする方法ではなく、生命力を持ったものの中に自分自身を置き、そこから生命力を受け取るための方法だったのではないかと思えてくる。

これは、私が今回「養気美動」という言葉を考えるうえでも、大きな発見だった。

「養気」というと、自分自身が何かを努力して養うという意味に感じられる。

しかし、生命力というものは、自分の中だけから生み出すものではないのかもしれない。

温泉に入り、食事をいただき、人の手による施術を受け、自然の中で身体を休めることで、外から生命力を受け取ることもできるのではないか。

そう考えると、古典的な湯治は、単なる昔ながらの温泉療法ではなく、生命力を受け取るための生活そのものだったのではないかと思うのである。

今回、御年85歳になる大先生が45年間守り続けてきた技術に触れたことは、私にとって大きな意味を持つ体験であった。

広告で自分の技術を大きく語ることなく、コンプライアンスを守りながら目の前のお客様に技術を提供し、その積み重ねによって口コミが生まれ、今でも北は北海道、南は九州から新しいお客様が紹介によって訪れている。

その姿を見たことで、私は「価値」というものは、言葉によってつくられるだけではなく、長い時間をかけた行動の積み重ねによってもつくられるのだということを、改めて感じた。

そして、大先生が45年間守り続けてきた古典的な施術と湯治の伝統が、次の時代にも続いてほしいと思った。

同時に、今回の体験によって、私自身がこれから考えるべき「新しい湯治」の方向も少し見えてきたように思う。それは、古典的湯治をそのまま現代に持ち込むことではない。

古典的湯治が持っていた本当の価値、つまり、温泉、食、人の手、土地、そして時間の中に身を置き、そこから生命力を受け取るという考え方を、現代人の生活の中にどう取り戻すかということである。

古典的な湯治は、昔の人が不便な時代に仕方なく行っていた古い健康法なのではない。

むしろ、現代の私たちが失ってしまった「時間をかけて身体を養う」という感覚を、今なお残しているのではないだろうか。

今回の湯治体験を通じて、私は、昔から続いてきた古典的な湯治こそが、生命力を受け取るための最大の湯治法だったのではないかというところまで考えるようになった。

そして、この「生命力を受け取る」という視点こそが、これから私が「養気美動」の中で追いかけていきたいテーマになったのである。