生命力は流れて出ていくだけじゃなくて、逆に“満ちたものから注がれる”こともあります。人も自然も、生命力の少ない人やモノに、そっと力を吹き込むことができます。
その身近な方法として、滋味美動―第4話では、「おもてなし」をお届けします。
長年、自分がサービス業に従事してきていると、「おもてなし」という言葉をよく耳にします。接客の基本は、この「おもてなし」にあると言ってもいいでしょう。
そして私は、人から受ける「おもてなし」もまた、強い生命力を発する行為の一つではないかと考えています。
とはいえ、改めて「では、おもてなしとはどんな心なのか」と問われてみると、実はこれまで、そこまで深く考えたことがなかったことに気が付きました。そこで、まずはAIに聞いてみることにしました。
すると、おもてなしについては、「見返りを求めない姿勢」「表裏のない心」「先回りする気配り」といった説明が出てきます。
利益や対価を期待するのではなく、純粋に相手に喜んでもらおうとする心構えであり、嘘偽りのない誠実な態度で相手に向き合い、さらに、相手が何を求めているのかを想像し、負担や余計な気を使わせないように、さりげなく準備や配慮をするというものです。
つまり、おもてなしの心とは、見返りを求めず、相手の立場に立って心地よい時間や空間をつくり出す、表裏のない思いやりの心ということになります。
では、それを言葉にすると、どんなフレーズになるのでしょうか。
「いらっしゃいませ」「ようこそおいでくださいました」など、接客の場ではさまざまな言葉が使われます。
しかし、よく説明を見てみると、おもてなしの本質は、言葉そのものではなく、心構えや態度、そして行動にあるようです。
だからこそ、言葉で「おもてなしをしています」と表現する必要はなく、むしろ「おもてなしに徹しています」などと自ら口にすることに、どこか胡散臭さを感じるのも分かる気がします。
実際、日本独自のホスピタリティの基盤とされる「目配り・気配り・心配り」は、言葉に出さなくても相手の状況や好みを察し、それに合わせて行動することにあります。
ところが、情報社会である現代では、言葉もまた非常に重要なものになっています。
少なくとも、人の言葉が行動につながり、その行動を通じて相手が生命力を受け取ることができるのだとすれば、生命力を受け取ってほしいと願う私にとって、お客様にどう接するのかは決して小さな問題ではありません。
同じサービスを提供していても、その接し方一つで生命力を渡すこともできれば、逆にそれを台無しにしてしまうこともある。そう考えると、改めて「おもてなしとは何なのか」ということを考えてみたくなります。
おもてなしは、「OMOTENASHI」として世界的にも一つの言葉として認識されているように、単純に「ホスピタリティ」や「マナー」と訳し換えるものではないようです。
では、なぜなのでしょうか。
別の説明では、ホスピタリティを日本語にすると「思いやり」や「心遣い」となり、お客様に対して心地の良いサービスを提供すること、そして提供する側と享受する側が対等であることが特徴であり、その部分ではおもてなしと共通しています。
しかし、おもてなしには、そこからさらに一歩進んだ意味があり、両者の間に「敬い」が入るのだといいます。
享受する側も提供する側のことを想い、敬うことで、互いに心地よい時間を過ごそうと心を尽くす。単なる「心遣い」ではなく、互いを想い、敬うところに、おもてなしの特徴があるというわけです。
だとすれば、それを言葉にするのではなく、定義どおりに心構え・態度・行動として表すと、いったいどのような商売の形になるのでしょうか。ここからは少し具体的に、食事処や宿泊施設を例に挙げながら、私なりに考えてみたいと思います。
高幡餃子 味の丸嘉

こちらのお店は、昭島に引っ越してきてからちょくちょく食べに行っているお店です。
現代的なパサパサした小麦皮の餃子ではなく、少々ぶ厚いモチモチした皮で包んでパリッと焼きあがった、昔ながらの昭和の餃子を提供している珍しいお店です。

何よりも原材料へのこだわり方がすごいと思います。
薬味のにんにくは青森県の田子(たっこ)産のものしか使わず、酢、しょうゆや金ゴマも国産の一級品ばかりで、ラー油も名門九鬼の伝統的な圧搾法で絞られた無化学処理・無添加の純正品を使っています。
肉はわざわざ市場に行って、冷蔵の国産一頭の、その場で切ってもらった肉だけを仕入れてくるというこだわりようです。
なんでも、精肉のプロでも見抜けないほど出来のいい成型肉が出回っているため、卸は使わないとのことでした。
定食のお味噌汁に顆粒だしは使わず、漬物は自分でつける完全手作り、ライスのお米は常に国産コシヒカリを出すという徹底ぶりで、餃子そのものも何もつけないで食べてもとても美味しく、野菜・肉出汁との塩梅が絶妙で、私には超美味という感じです。何かにつけて食べるとしたら、お酢くらいかな、と思うほどです。
そんな餃子について、ご主人は「餃子はラーメンと同じで、具はラーメンの汁で、皮は麺に当たるので、餃子の醍醐味は本当は皮なんだ」といいます。
その言葉どおり、ぎょうざの皮は手作りで、お店の餃子の皮づくり用に機械を購入して、改造に改造を重ね、オリジナルの皮を大量に作れるように工夫したり、瞬間冷凍ができる冷蔵庫を買って、作り立てをいつでも提供できるようにしているなど、設備投資にも余念がありません。
メニューは餃子一本で勝負するお店です。
もともとは、店主自身が添加物・化学調味料を食すと胃腸の不調を引き起こすことから、調味料やでんぷんなどの添加物にもこだわるようになったそうで、例えば餃子の歯ごたえのポイントとなるでんぷんはかなり高級なものを使用し、しょうゆは昔ながらの老舗の高級品を使用しています。
健康はご主人の体質によるオマケみたいな存在であったのかもしれませんが、健康ブームの今の世の中では、それが結果として最高の価値を提供しているようにも思えます。
あるいは、自分が食べれないものを他の人にも提供しないという道徳観からそうしているようにも思える人柄の店主でもあります。
ところで、長年、商売を営んでいると、モチベーションが下がることを防ぐのは難しいと感じます。慣れというものは怖いもので、いつもの通りを毎日繰り返せばいいだけなのだが、毎日なだけに、その毎日がいつか飽きる心を育てる積み上げになってしまう場合もあるんだなと思うことがあります。
あるいは、がむしゃらに頑張って目標を目指している時は、一心不乱で突き進むことはできても、いざ達成した、獲得したとなると、「勝って兜の尾をしめよ」とするべきだなと思えても、意外に心は弱いものでもあるのです。
そして、目標を達成しきって、ふと冷静になったとき、実はまわりは誘惑だらけで、本当は誘惑に負けてしまったはずなのに、「考えが変わってしまった」「時代に合う考え方をしなきゃな」みたいな感じで、自分の中で理由をつくってしまうこともあります。
そう考えると、本当にはじめに持った心構えや芯を突き通していく人というのは、意外にまわりにいないことに気が付かされます。
では、芯を突き通している人は、どんな特徴があるのでしょうか。
それが、おもてなしの心に一貫性があるのです。意外にシンプルです。
味の丸嘉の店主は、いつも「おいしい餃子をターンと腹いっぱいに食っていけ」といいます。この言葉はもう何万回聞いたのだろうか、ってくらい丸嘉さんの定番ワードです。
本物の美味いもんは、きちっとした材料を手間暇かけて丁寧に作ったものだという考えで、その言葉通りの餃子が出てくるのです。
設備投資、厳選された材料、そしてこだわりの作り方を聞いていると、まさに目指すべき目標に常に向かっていることが分かります。
では、なぜモチベーションが下がらないのか。ここまで繁盛すれば、二店舗目の野望やら、人を大勢使ってお店を大きくしたいとか、あるいは、自分のノウハウを売るコンサル的なことをしないのかと尋ねてみたことがあります。
しかし店主は、「とにかく美味しい餃子を食べてもらいたい。ずっとそう思っているだけだ。それだけでお店は手一杯なんだ」と、実にシンプルに答えます。
現実、今、開店の11時に合わせて仕込みをはじめたら、早朝4時にはお店にいる。売り切ったら閉めるのはだいたい夕方くらいで、そこから明日の準備やら掃除やらやっていたら、夜になる。これで週6、毎日です。
休みの日は仕入れに奔走するから、年中無休で働いているようなものです。
それでも、食事処の基本は手間賃商売なのだから、手間暇かけるのは基本線で、それは絶対にはずせない。だけど、それに徹していたら他のことをやる暇がないのだとか。
とにかく手間暇かけて、とてつもなく美味しい物をたくさん作る。そこに徹しているのだそうです。それでもう45年近くは、こんな感じだというのです。
そんな丹念に丁寧に作られた餃子定食で、メニューはその一つだけ。そして、価格はずっと変わらない700円です。
今、ほとんどの食事が倍近く値上がりすることが通常になっているにもかかわらず、値段はあげない。状況を最初の状態から一切変えない、そこにプライドがあるというのです。

世間や状況に流されない。値段なんて経営の工夫で何とか乗り切ってやる。とにかく、おいしい餃子を食べてもらいたい一心で、最初に持った心構えを45年近くも突き通している。
私は、これこそが、おもてなしの一つの形なのではないかと思うのです。
「お客様を大切にしています」と言葉で言うことは簡単ですが、本当に相手を想い、敬うのであれば、その気持ちは結局、何を仕入れ、どう作り、どこまで手間をかけ、どんな価格で提供するのかという、毎日の一つ一つの行動に現れてくるはずです。
味の丸嘉の場合、それが「とにかく美味しい餃子を食べてもらいたい」という一つの芯に集約されていて、材料選びにも、設備投資にも、皮づくりにも、仕込みにも、そして45年近く変わらない商売の姿勢にも、一貫して表れているのです。
だからこそ、そこで食べる餃子は、単に「美味しい餃子」というだけではなく、作り手が長い時間をかけて積み上げてきたものまで一緒にいただいているような感覚になるのかもしれません。
そして私は、そういうものを食べたときにこそ、「満ちたものから注がれる生命力」というものを感じるのです。
二岐温泉 旅館ふじや
食事処で「おもてなし」を考えてみましたが、同じことは宿泊施設にも言えるのではないかと思います。
そこで、もう一つ、私が実際に訪れて強く印象に残った宿をご紹介します。
毎年、季節になると訪れる場所がありました。
そこは女将が一人で経営している松岡という漁師民宿で、女将さんのお兄さんが漁師だから、新鮮な魚を融通してもらえるということで、朝どれのヒラメや、特にアオリイカの活け造りが美味くて、季節になると訪れていたのです。

近年は漁獲量の減少か、訪れる前に電話して尋ねていたのですが、ここ数年はタイミングが合わず、訪れていません。
今年も電話したのですが、やはりタイミングが合わず行けない。そこはとにかく女将さんの手作り料理が美味くて、ぜひ行きたいと思っていたところで、こちらの旅館に出会いました。
福島県天栄村にある二岐温泉は、平安時代の安和2年(969年)に開湯したと伝えられる、約1200年の歴史を持つ古湯です。
安和2年の発見とされ、病床にあった嵯峨天皇の快復を祈り、京都から薬湯を探しにきた使者が発見したという伝承や、平将門の一族が伝わったという説もあり、さらに平家落人の里という伝承も残っています。
江戸時代には南会津の「隠し湯」として一般人の通行や入浴が厳しく制限され、大名クラスのみが恩恵にあずかれる特別な湯という言い伝えもあるそうで、現在も渓谷沿いに自然湧出の源泉を持つ宿が数軒点在し、昔ながらの静寂な雰囲気を残しています。雰囲気としては、山の奥深いところにある温泉というカンジです。
そこでいろいろお話を伺い、実際に提供された食事をいただいたとき、私は思わず「ここは山の松岡だ」と漏らしてしまいました。提供される料理はすべて手作りで、山の幸に徹しています。
特にいわなの刺身は、直前まで生きていたものをさばいたものなので、味はさることながら噛み応えがばつぐんです。


今まで「直前まで生きていたものをさばきました」という言葉はよく聞いてきましたが、正直、それはただのセリフなのではないかと思わせることもありました。
しかし、ここで出てきたいわなの刺身は、ヒラメやタイに劣らないほど噛み応えがあり、本当に直前まで生きていたものをさばいたのだと感じさせるものでした。
また、お吸い物に入っていたタモギダケは、わざわざ山に生えているものを、調理の直前にとってきたものだといいます。

タモギダケは、ぶっちゃけ、地方なら産直で簡単に手に入るきのこですが、わざわざ山に入るほうがめんどうなのに、それを夕食のためにとってくるのだから、おもてなしの行動がはんぱない。
山の幸を存分に味わってほしいという思いから、わざわざ山に入っていくわけです。
しかも、時にはクマに遭遇し、10分間のにらみ合いの末に獲得される野菜もあるのだとか……。
もちろん、すべてがそこまで命がけというわけではないでしょうが、それでも「お客様に山の幸を味わってほしい」という思いが、実際に山へ入って食材を採ってくるという行動になっていることには驚かされます。
そして、ここでも設備投資に余念がありません。
こちらも小さい旅館で、訪問客を収容できる部屋数が少ないにもかかわらず、瞬間冷凍ができる冷凍庫を購入しているというのです。
瞬間冷凍庫で旬を、摘みたてをその時点で封じ込める。
そのおかげで出てくる山菜には色あせがなく、まるで今日摘んできたような色と味が残っています。
これは、先ほどの味の丸嘉との共通点でもあります。味の丸嘉では、餃子を一気に大量に作るから、作った順から古くなっていくのを防ぐためだというのです。
小さな旅館にもかかわらず、信念に対する設備投資がはんぱない。私はそこにも、この宿のおもてなしの姿勢を感じました。
初めての訪問だったので、味の丸嘉のような決まったフレーズはまだ知りませんが、設備投資といい、お客様の食事のために命がけで山に入っていく行動といい、そこには「山の幸をまるごと味わってほしい」という思いがあふれています。
そう考えると、丸嘉と旅館ふじやには、業態こそ違っていても、共通するものがあります。
それは、「お客様を大切にしています」と言葉で説明することではなく、自分たちが信じるものを守り、そのためなら手間暇を惜しまず、必要な設備にはお金をかけ、場合によっては自分自身が山に入ってまで、本当に良いものを提供しようとする姿勢です。
つまり、おもてなしとは、言葉ではなく、信念が毎日の行動として現れたものなのではないでしょうか。
加えて、ここには24時間入浴可能な源泉100%かけ流しの温泉があります。
一泊だけの養生でも、十分に生命力を補充できるすばらしい宿で、私にとっては「いいとこに出会った」という感じでした。
意外にも、二岐温泉はこれほど歴史のある温泉です。
歴史の長さからも生命力が豊かに感じられる、いい温泉でした。そして、そこに暮らし、山の恵みを採り、手間暇をかけて料理し、それを訪れた人に食べてもらう人たちがいる。
その営みそのものにも、私は強い生命力を感じるのです。
庄助の宿瀧の湯
こちらは、源泉100%かけながしの温泉だと噂を聞きつけて訪れた宿で、食事も評判な宿であるという前評判がありました。
ただ、最近になって、源泉100%かけ流しという表現は、必ずしも源泉がそのまま、何も加工されずにかけ流されるという意味ではないことに気が付きました。
温泉における「100%」という表現は、主に「加水(水道水などで薄めること)をしていない」という意味で使われるケースがほとんどです。
- 加水なし = 源泉の成分そのままだから「源泉100%」
- 循環なし = 常に新しいお湯が流れているから「かけ流し」
この2つを満たしていれば、衛生上の理由でわずかな塩素薬剤を注入していたとしても、法律や一般的な表示義務(温泉法施行規則)において「源泉100%かけ流し」として成立する場合があります。
このように塩素を入れてもかけ流しをすれば、衛生法にのっとった「源泉100%かけ流し」と言える場合があります。
また、源泉自体の湧出量が少なく、いったんためた状態にして、たまった状態を加温してから注水させないとお風呂が稼働しないような場所でも、「源泉100%かけ流し」と表現されることがあるなど、私が想像していた「源泉100%かけ流し」とは少し違う現実があり、結局のところ、源泉そのものの湧出量次第というところもあるようです。
そんな疑いが生じたことで、あらためて調べ直す目的で訪れた宿でもあり、正直なところ、食事に関してはそれほど期待していませんでした。
というのも、やや大型旅館にもなれば、どんなに「オーガニックです」「新鮮野菜です」とうたっていたとしても、最近UPした『人類の進歩に「手作り」は不要、むしろ邪魔なだけ?』エッセイでも書いた通り、今や工場でもオーガニックや無化調・無添加食品を作ることができるからです。
大型宿泊施設にもなれば、加工食品工場を通さずに提供される食事は、はっきり言って、ないと思っていることには変わりありません。
しかし、ここで焦点を「何を使っているか」だけではなく、「生命力を補充する」というところに変えてみると、つまり、いかに「人間が触れているか」を見ていけば、そこから見えてくる「おもてなし」というものもあるのではないかと思うようになりました。

そういう視点でこちらの宿を見てみると、郷土料理に手が込んでいることははっきりと分かりましたし、オーガニックや無添加・無化調に関しても、調味料には地元の老舗の味噌やしょうゆを使い、農家からの新鮮な野菜や肉類、魚類などを調理場で調理したもの、あるいは自然のままの料理を提供していることが目立ちます。
盛り付けにも芸術性があり、明らかに人の手が加えられていることが分かりますし、何よりも「食事を楽しんでほしい」という願いにあふれた食事処のつくりになっていました。

特に朝食でいただいた、つきたての餅を提供するときのスタッフのふるまいには、おもてなしを感じました。
単に料理をテーブルに並べて終わりではなく、食事そのものを楽しんでもらおうという気持ちが、スタッフの動きや接し方にまで表れているのです。
つまり、食事や働くスタッフを含めて、宿泊施設全体のつくりが、「どうぞ楽しんでいってください!」「くつろいでください!」というウェルカムを体現しているようにも思えたのであり、源泉100%かけ流しを調べるという当初の目的とは別に、宿泊するだけでも元気をたくさん頂戴したかのような感覚に包まれた、いい宿であったと思います。
老舗の比較的収容数の多い、それなりの値段帯の旅館というと、比較的高齢の宿泊客の方が圧倒的に多いというイメージがありますが、こちらの宿は、我々が年寄りになってしまうくらい宿泊者が若い人だらけで、それだけに人気なのもうなずけます。
私の若い頃は健康のことなんて考えたこともありませんでしたが、今の20代、30代、何なら10代の会話を聞いていると、けっこう健康意識が高いなあと感じることがしばしばあり、若い人ほど、健康に良いものをただ「健康に良い」と説明されるだけでなく、食事や空間、体験そのものを通して分かりやすく感じられることを重視しているようにも思います。
そう考えると、こちらの宿は、若い人の健康意識に合わせた食事や建物のつくりを取り入れながら、それを単なる現代的な健康サービスとして提供するのではなく、郷土料理や老舗旅館としての伝統、人の手をかけた料理やスタッフのふるまいによって、昔から続いてきたものの中に自然に溶け込ませていることがありありと分かります。
つまり、古いものをそのまま残しているのではなく、伝統を持ちながら、今の時代に求められているものをきちんと届けているからこそ、若い人たちにもその価値が伝わっているのではないでしょうか。
現在の草津温泉のように若い人がたくさん訪れる宿や観光地こそ成功例として取り上げられることが多いことを、温泉保養の資格講座で聞いたことがありますが、そう考えると、これからの温泉旅館に必要なのは、ただ古き良き伝統を守ることでも、若い人に合わせてすべてを現代風に変えてしまうことでもなく、昔から受け継いできたものの中に、今の人たちが求めている価値を見つけ、それを人の手によって丁寧に届けていくことなのかもしれません。
こちらの宿の食事には、まさにその「伝統を守りながら、今を生きる人に届ける」というおもてなしが、はっきりと表れていたように思います。
一方、本調査の対象であった源泉に関しては、100%かけ流しは貸切風呂のみであったのは少し残念でしたが、それもある程度の規模のある宿泊施設では、一般客の風呂も大きくなるため、源泉の配水に頼る宿泊施設の場合は、注入量が少ないという都合から、循環槽の使用を採用せざるを得ない場合があります。
だから、100%かけ流しの場合は小さな貸切風呂でしか体験できないというのも、ある程度は仕方がなかろうと思います。
それでも、今回あらためて感じたのは、温泉の泉質や源泉の状態だけを調べていれば、その宿が持っている生命力のすべてが見えるわけではないということでした。
どんな食材を使い、どのように料理し、どんな空間をつくり、そこで働く人がどのようにお客様に接するのかまで見ていくと、そこには数字や表示だけでは分からない、人の手によって生み出された「おもてなし」が確かに存在しているのです。
陽日の郷あづま館
ここまで、食事や宿の中にある「おもてなし」について考えてきましたが、逆に、せっかく料理がよくても、食べさせられているような気分になると、人が介在していたとしても、まるで機械的な扱いを受けているような気分になり、食事を楽しむこともできず、意気消沈してしまうことがあります。
せっかく景色から、温泉から生命力をいただけたとしても、最後の食事で元気を失ってしまえば、最終的には元気になれないわけで、食べさせてやるという態度では、心も意気もこもっていないことになってしまいかねません。
以前、宿泊施設としてちゃんとしているという噂を聞いて、昔からリゾートとして名をはせている施設に宿泊し、実際に食事をしてみたことがあります。
温泉や景色はよくても、食事処のテーブルや椅子が装飾のない古いものだったり、窓ガラスがくすんでいて、窓のさんなどが錆び錆びになっていたりすると、どうしても気持ちが沈んでしまいます。
最近は宿泊の値段帯に関係なく、大型ホテルや旅館はビュッフェ形式が多く、その食事処の在り方を見ていると、なんというか「食べていってよ!」ではなく、「食べさせられている」という感があり、どうもおもてなしを感じないのです。
そんな中で、こちらの旅館は、入り口からすでにおもてなしの心を体現しています。

とても小さいことではあるのですが、生け花が見事で、ある程度の値段帯の宿泊施設でも効率化が重視され過ぎているため、精巧な生け花のレプリカがほとんどになっている中で、ここではきちんと人の手が入っていることが分かります。
老舗で古さを感じさせつつも、床や壁などの内装も常に新しいか、あるいはよく掃除がされていて、そこにいるだけで滞在が心地よく感じられるのです。
食事に関しても、バイキング形式ではあるものの、地域の伝統的な和食がメインで、接客慣れした大勢のスタッフが笑顔を絶やさず、きびきびと働く姿は、見ているだけでも何とも元気が出ます。

食材も地産地消であるうえに、一物全体、つまり食材をまるごと味わってほしいというタイプの料理にあふれていて、単に料理をたくさん並べて自由に食べてもらうというビュッフェとは、少し違ったものを感じました。
前に、生命力は食材が調理される時点から劣化が始まると書きましたが、人の手が加えられた後に、すぐに食事として提供されれば、食材の生命力を十分に受け取ることができるのではないかと思っています。
もちろん、手が込んでいるか、機械や工場で作られたものなのかを見ただけで完全に見分けることはできませんが、私は卵焼きや漬物をよく見ます。
明らかに工場だなと思えるものと、「これは人の手で作られたな」と感じるものは、卵焼きや漬物を見ていると、意外と分かるものです。

そして、こちらの宿で良いと思ったのは、食事だけではなく、お湯に対する配慮でした。
酸性泉はけっこう温湯が多く、酸性泉の皮膚への刺激は新陳代謝を高める効果が高いとされ、草津温泉などはアトピーで売っていますが、実は糖尿病でも売っています。
確かに、病気療養にもってこいとは思います。しかし、それはあくまで体力が十分にある人への療養であって、体力が虚弱な人の病気療養ではないのではないかと思います。
以前、温泉保養の資格講座で、玉川温泉の岩盤浴について話された講師がいました。玉川温泉は難治の病を治しにくる温泉として有名ですが、その講師によると、体力が虚弱な人には温浴と岩盤浴の組み合わせをすすめていないそうです。
なぜなら、酸性泉による代謝向上と、熱い岩盤によって温められる熱の相乗効果は絶大であっても、それだけ体力を奪うからで、虚弱な人の場合には病気を悪化させてしまうことがあるというのです。
実際、何が何でもと岩盤浴にしがみつくお客様が多いらしいのですが、注意を振り払って続けたことで病気が悪化したり、死期を早めてしまったという人もいたと聞きました。
酸性泉に加えて熱いというのも、確かに体力を消耗するものですから、温泉の力が強ければ強いほど、それを受ける側の体力との兼ね合いを考える必要があるのだと思います。
そう考えると、こちらの宿の温泉は、源泉温度が54℃のかけ流しであるはずなのに、湯舟ごとに温度が違うのがありがたい。
特に、ぬる湯のかけ流しがあるのがいいのです。ついでにサウナも70℃だから、じっくりゆっくりと湯船につかることができ、温泉を通した火山の生命力を、無理なくじっくりと取り込めるのは大きな利点だと思います。
こうして見ていくと、こちらの宿のおもてなしは、単に笑顔で接客してくれるとか、料理をきれいに盛り付けてくれるということだけではなく、建物をきれいに保つことから、食材の選び方、料理のつくり方、スタッフの動き、さらには温泉の温度にまで及んでいます。
つまり、「どうすればお客様がここで心地よく過ごし、元気になって帰ってもらえるのか」ということを、宿全体で考えているように感じられるのです。
私は、これこそが「おもてなし」の一つの完成形なのではないかと思います。
お客様に何かをしてあげるという一方向のサービスではなく、食事も、空間も、温泉も、人の働き方も含めて、相手が心地よく生命力を受け取れるように整えていくこと、その一つ一つの積み重ねこそが、人から人へ生命力を渡す「おもてなし」になるのではないでしょうか。

