現在、会員様の予約施術のみ承っております⇒

ガラス張りの社会を生きる私たち ――「忘却される権利」が消えた日

1.はじめに~SNSの裏側にある「大人の本気」

SNSを使っている人なら、一度くらいは経験したことがあるのではないでしょうか。

何気なく書いた文章が削除された。
投稿が表示されなくなった。
アカウントに制限がかかった。

あるいは、何が問題だったのかはっきり分からないまま、「この表現は適切ではありません」と知らされた。もちろん、SNSの運営会社が行っていることと、行政が法律に基づいて行うことは、まったく別の話です。

ただ、ここで私が注目したいのは、その違いではありません。

「ネット上では、言葉そのものが管理の対象になり得る」

という、現代社会の大きな変化です。

そして、この変化は、私たち療術業界にとっても決して他人事ではありません。

前回の記事「医業類似行為の真実⑤―『資格』よりも『言葉』が人を分ける時代」では、国家資格を持っているかどうかだけではなく、「何を目的としているのか」「それを何という言葉で説明するのか」が、現代の療術業において重要な意味を持つようになっていることを書きました。

しかし、ここで一つ疑問が残ります。なぜ、私たちはこれほどまでに「言葉」を慎重に扱わなければならなくなったのでしょうか。

私は、その背景には法律や広告規制だけでは説明できない、もっと大きな社会の変化があるように思っています。

それは、

一度、社会に向けて発信した情報が、時間とともに消えていかなくなったこと。

そしてもう一つ。

その膨大な情報を、以前よりはるかに低いコストで保存し、検索し、比較できるようになったこと。

です。

私たちは今、かつて経験したことのない「記憶する社会」の中で暮らしています。


2.消えた証拠と永遠に残るタトゥー

「昔は良かった」と懐古主義に浸りたいわけではありません。

昔の社会にも、もちろん理不尽なことはたくさんありました。

ただ、情報の残り方だけを考えると、今とは明らかに違います。

新聞広告
チラシ
雑誌
パンフレット
手紙
看板

昔の商売人が世の中に発した言葉の多くは、時間とともに消えていきました。

紙は破れます。
インクは薄れます。
看板は取り外されます。
古い雑誌は廃棄されます。

そして何より、人間の記憶そのものが時間とともに薄れていく。

つまり、かつての社会には、意識して作られた制度ではなかったとしても、

「過去が自然に忘れられていく」

という仕組みが存在していたのです。

一度間違えた。
一度言い過ぎた。
一度失敗した。

それでも、時間をかけてやり直す。

もちろん、重大な犯罪や不祥事まで「忘れればいい」と言っているわけではありません。そうではなく、日常生活や商売の中で犯してしまった小さな過ちまで、何十年も現在に引き戻されることはなかった。

そこには、人間が再出発するための余白がありました。

私はこれを、あえて、

「忘却される権利」

と呼びたいと思います。

ところが、インターネットは違います。

ホームページに書いた文章
SNSに投稿した写真
ブログの記事
通販サイトの商品説明
動画の発言
口コミへの返信

一度インターネットに公開した情報は、削除すれば必ず消えるとは限りません。

誰かが保存しているかもしれない。
引用されているかもしれない。
別のサイトに転載されているかもしれない。
検索エンジンに記録されているかもしれない。
アーカイブとして残っているかもしれない。

つまり、

「消した」という行為と、「存在しなくなった」という状態が一致しない。

これがデジタル社会の大きな特徴です。

そして、そこにAIが加わってきました。

これまでなら、人間が一つ一つ検索して探さなければならなかった過去の情報を、AIが大量の文章の中から拾い出し、分類し、比較し、要約し、関連づける。もちろん、現在のAIがすべての過去を正確に記憶しているわけではありません。

しかし、

「過去の情報を現在の判断材料として利用するコストが下がっていく」

という方向性そのものは、無視できない変化だと思います。

これは個人だけの問題ではありません。会社にも同じことが起こります。

昔のホームページには何と書いてあったのか。
以前はどんな効果をうたっていたのか。
過去のお客様の感想には何が書かれていたのか。
現在の説明と、過去の説明はどう違うのか。

そうした情報を、人間がわざわざ探し回らなくても比較できるようになれば、

過去の自分が、現在の自分を評価する材料になる。

これが、デジタル社会の恐ろしさです。


3.国が仕掛ける「本気の採算性」と企業の防衛網

ここから先は、少し推測を含む話になります。

私は、「行政がすでにAIによって全国の企業や療術業者のホームページを24時間監視し、自動的に違反者を摘発している」と言いたいわけではありません。そのような事実を、私は確認していません。

ただ、行政のデジタル化が進み、AIによって情報処理能力が高まっていけば、行政の仕事のやり方そのものが変わっていく可能性はあります。

これまで行政が何かを確認しようとすれば、

「探す」
「読む」
「分類する」
「比較する」
「過去と照合する」

という作業を、人間が一つずつ行わなければなりませんでした。

当然、そこには人件費がかかります。時間もかかります。だから、全国に膨大な数の事業者が存在する以上、すべてを同じ密度で確認することには、現実的な限界があります。

ところが、デジタル技術が進み、さらにAIによってその一部を自動化できるようになったらどうでしょう。

例えば、

「問題がありそうな表現を抽出する」
「過去の掲載内容と現在の掲載内容を比較する」
「同じ事業者の複数ページを横断して確認する」
「膨大な情報の中から、人間が確認すべき案件を絞り込む」

こうした作業の一部を機械が担えるようになれば、行政側の「確認するコスト」は大きく変わります。

ここが、私は怖いのです。

AIによって何かが「可能になる」ことよりも、今まで人手がかかりすぎて、現実的にはできなかったことが、安価になってしまうことのほうが、社会を大きく変える可能性があるからです。

そして、これは行政だけの話ではありません。企業側も同じことを考えるでしょう。

自社のホームページを公開する前に、AIに文章を読ませる。
過去の広告と現在の広告を比較する。
法令やガイドラインに抵触する可能性のある表現を抽出する。
お客様の口コミや体験談の中に、広告として問題になり得る表現が含まれていないか確認する。

つまり、

行政側が「確認するAI」を持つ可能性があるなら、企業側も「守るAI」を必要とするようになる。

そうなれば、インターネットの裏側では、「攻める側」と「守る側」という構図が生まれてきます。

もちろん、これは現時点の行政運用を断定する話ではありません。むしろ私は、これから起こり得る社会の変化として考えています。

しかし、行政のデジタル化が進み、企業もAIを経営に組み込んでいく以上、「情報を扱うコストが下がることで、社会のルールの運用方法まで変わっていく」という可能性は、決して無視できないでしょう。

そして、ここにはもう一つ、非常に現実的な問題があります。

行政にも予算があります。
職員にも勤務時間があります。
社会保障費は増えています。
人口構造も変わっています。

だから行政も、限られた資源で、より多くの仕事を処理しなければならない。

そう考えると、「人間がやっていた確認作業を、どこまでデジタルで効率化できるか」という方向へ進むことは、ある意味では極めて合理的です。

私はこれを、「行政が怖い」と単純に言いたいのではありません。

むしろ、行政自身もまた、デジタル化によって仕事の採算性を追求せざるを得ない時代になったということです。

そして、企業もまた、その変化に合わせて自分たちを守らなければならなくなる。

これが、これからの「ガラス張りの社会」の一つの姿になるのではないでしょうか。


4.開かれたはずの自由競争と、隠された「言葉の格差」

ここで、再び私たちの療術業界に戻ります。

現在は、さまざまな民間のウェルネスサービスが存在しています。

リラクゼーション
エステ
フィットネス
パーソナルトレーニング
整体
コンディショニング
さまざまな民間資格

一見すれば、自由競争の時代です。

誰でも参入できる市場が広がり、消費者が自由に店を選べる。

ところが、その市場で商売をするためには、当然ながら「広告」が必要になります。そして広告には、ルールがあります。

ここで、少し奇妙なことが起こります。

「サービスを提供する自由」と「それを説明する自由」が、必ずしも同じではないという現象。

仕事そのものはできても、使える言葉には制約がある。
資格によって表現できる範囲が違う。
サービスの目的によって表現が変わる。
広告の受け取られ方によっても問題が変わる。

つまり、市場への参入が広がったとしても、「言葉の市場」まで完全に自由になったわけではない。ここに、現代の療術業界の非常に面白い構造があります。

前の記事⑤で書いたように、私たちは長い間、「国家資格者」と「無資格者」という二つの世界を見てきました。

ところが、2009年以降、健康寿命、予防、ウェルネスという価値観が社会に広がり、2013年10月の日本標準産業分類では「リラクゼーション業(手技を用いるもの)」が独立した細分類として位置づけられました。

医療とは別に、民間の健康サービスを受け止める「産業」の器が作られていったわけです。

これは、ある意味では市場を開いたとも言えます。しかし、市場を開けば、それだけで完全な自由競争になるわけではありません。

市場が大きくなればなるほど、

「何を売っているのか」
「どのような効果をうたっているのか」
「消費者に何を期待させているのか」

という問題が生まれます。

そこで広告規制が必要になる。
品質管理が必要になる。
表示のルールが必要になる。

そして、そのルールを守るために、事業者は「言葉」を選ぶようになる。

つまり、市場を開くことと、市場を管理することが同時に進んでいく。これが、現代の産業政策の面白いところです。

「規制緩和」と「規制強化」は、必ずしも反対方向ではありません。

ある領域への参入を広げる。その一方で、広告については厳格にする。

新しい産業を育てる。その一方で、消費者保護のルールを整える。

市場を拡大する。その一方で、品質や表示の管理を強化する。

こうして、「自由競争なのに、自由に何でも言えるわけではない」という、一見矛盾した状態が生まれます。

私は、ここに「言葉の格差」が生まれるのではないかと思っています。

同じように身体を扱っていても、資格や制度上の立場、サービスの目的によって、社会に向けて使える言葉の幅が違う。

だから、これからの療術業では、「どんな技術を持っているか」だけではなく、「どんな言葉で、その技術を社会に説明できるか」が重要になってくる。

そして、その言葉はインターネット上に残ります。

昔の自分が書いた言葉も残る。
現在の言葉と比較される可能性もある。
さらにAIによって、その比較や整理のコストまで下がっていく。

そう考えると、⑤で書いた、「資格よりも言葉が人を分ける時代」という話は、単なる療術業界の話ではなくなってきます。

これは、現代社会全体の問題なのです。


5.おわりに~一度のミスが許されない「ガラス張りの社会」で

私たちは、とても便利な社会を手に入れました。

何でも検索できる。
何でも保存できる。
世界中の人とつながることができる。
AIに文章をまとめてもらえる。
過去の情報を瞬時に探し出せる。

企業も行政も、膨大な情報を以前より低いコストで扱えるようになってきました。これは間違いなく、大きな進歩です。

しかし、その便利さの裏側には、「一度残った情報は、なかなか忘れてもらえない」という代償があります。

昔なら時間が解決してくれたことを、今は時間が解決してくれない。

昔なら忘れられた言葉が、今は検索される。

昔なら別の場所で再出発できたかもしれない人が、今は過去と現在を簡単に結びつけられてしまう。

そして、デジタル技術によって、行政も企業も、これまで人手がかかりすぎて難しかった情報の収集、確認、比較、管理を、より低いコストで行えるようになる可能性があります。

だからこそ、これからの社会では、「見つからないから大丈夫」という考え方は、少しずつ通用しなくなっていくのではないでしょうか。

大切なのは、「見つからないようにする」ことではなく、「見られても説明できる状態にしておく」ことです。

これは、企業だけの話ではありません。個人にも当てはまります。

SNSで何気なく書いた一言。
勢いで投稿した写真。
昔のブログ。
昔のホームページ。

そして、私たちのような小さな事業者が作った広告やサービス説明。その一つ一つが、未来の自分から見れば「過去の証拠」になります。

だから私は、「未来の自分に説明できないことは、今の自分も言わない」くらいの覚悟でいいのではないかと思っています。

誰かに監視されるからではありません。
行政に摘発されるからでもありません。
AIが怖いからでもありません。

もっと単純に、「10年後の自分が、その言葉を見ても責任を持てるか」を基準にする。それだけでも、これからの時代を生きるための、かなり強い防御になるのではないでしょうか。

ただ、私はここで一つ、さらに大きな問題を感じています。私たちが暮らしているのは、単純な「監視社会」ではありません。

健康
情報
データ
教育
金融
観光
介護
そしてAI。

社会のさまざまな領域が、「市場」として再編されていく時代です。

国民の健康寿命を延ばしたい。
医療費を抑えたい。
介護費用を抑えたい。
企業の生産性を高めたい。
新しい産業を育てたい。

これらは、それぞれを見れば決して悪い目的ではありません。

しかし、そこに巨大な経済価値が生まれると、「社会を良くする政策」と「企業が利益を生み出す市場」が接近していく。

国は制度を作る。
企業は、その制度の中で新しいサービスを作る。
消費者は、それを利用する。
市場が大きくなれば、さらに制度が整えられる。
そして、制度が整えば、さらに資本が流れ込む。

こうして、政策が市場を作り、市場が政策をさらに後押しする。そんな循環が生まれていきます。

私は、この構造を見ていると、あえて一つの言葉を使いたくなります。

「現代型の重商主義」

です。

もちろん、歴史上の重商主義と完全に同じ意味ではありません。

私がここで言っているのは、

国家が市場を単純に放置するのではなく、成長させたい分野を政策によって示し、制度やルールを整え、そこへ資本や企業活動を誘導しながら、国全体の経済力を高めようとする構造

のことです。

健康産業も、その一つでしょう。

デジタルも、AIもそうでしょう。

さまざまな政策分野で、国が「これから伸ばしたい市場」を示し、その方向へ企業が動いていく。そして私たちは、その市場の中で消費者として生活する。

療術業界も例外ではありません。

かつては、「国家資格を持っているか」という大きな境界線がありました。ところが、高齢化や健康寿命が社会的な課題となり、医療や介護だけでは支えきれない領域が広がると、「公的保険外の健康サービス」という新しい市場が大きくなっていきました。

その市場を育てるためには、当然ながら一定のルールも必要になります。すると、「仕事をする自由」と「何でも自由に言えること」が別の問題になる。そこに、「資格」だけでは説明できない新しい境界線が生まれる。

それが、「言葉」なのだと思います。

そして、その言葉がインターネット上に残り、過去と現在を比較できるようになり、AIによってその処理コストまで下がっていく。

私は、ここにこれからの社会の大きな変化があると思っています。

誰かが巨大な監視社会を設計したわけではない。

便利だから保存する。
便利だから検索する。
便利だから比較する。
便利だからAIに処理させる。

行政は行政で、限られた人員と予算の中で、より効率的に仕事をしなければならない。

企業は企業で、変化するルールの中で生き残らなければならない。

消費者は消費者で、より安全で便利なサービスを求める。

そうやって、それぞれの合理性が積み重なっていった先に、「すべてが見える社会」ができてしまうのかもしれません。

便利で、合理的で、効率的。けれど、その社会では、一度発した言葉が簡単には消えない。

過去の自分が、未来の自分を縛る。そして、その「透明性」そのものが、行政にとっても企業にとっても、新しい価値を持つようになる。

私は、これを単純に「怖い社会」と言って終わらせるつもりはありません。

透明性が高まることで、悪質な事業者が逃げにくくなる。

消費者が情報を比較しやすくなる。

真面目に仕事をしている人が評価されやすくなる。

行政も限られた資源を効率よく使えるようになる。

良い面も、確かにあります。

ただし、

誰がその透明性を使うのか。

何のために使うのか。

そして、そこからどのような市場が生まれるのか。

この三つだけは、私たち自身が見ておいたほうがいいでしょう。

なぜなら、私たちは今、「国家が市場を作り、市場が国家を支え、テクノロジーがその両者を効率化する」という、新しい社会の中にいるからです。

それは、かつてのように国がすべてを直接管理する社会ではありません。むしろ自由競争を認めながら、その自由競争を維持するためのルールを増やしていく社会です。

市場を開きながら、市場を整える。

参入を広げながら、言葉を制限する。

便利にしながら、透明にする。

そして、透明になった社会では、過去の言葉まで現在の自分について回る。その中で、私たちは知らないうちに、政策と市場の大きな流れに組み込まれていきます。

健康も。
情報も。
信用も。

そして、人間が何を言ったかという「言葉」さえも。すべてが価値を持つ時代です。

だから私は、これからの小さな事業者に必要なのは、単に「法律を守る」という消極的な姿勢だけではないと思っています。

未来の自分が、その言葉に責任を持てるか。

誰に見られても、その仕事の意味を説明できるか。

そして、

自分がどのような市場の中で、何を売り、何を守ろうとしているのかを理解しているか。

そこまで考えておく必要があるのではないでしょうか。

ガラス張りになっていく社会の中で、完全に透明にならないことは、もう難しい。

ならば、透明になることを恐れるより、「透明になっても困らない自分」を作っておく。それが、これからの時代を生きるための、静かな防御なのかもしれません。

そして、その先にあるのは、単なる「監視社会」ではないでしょう。国家と資本とテクノロジーが、それぞれの合理性によって結びつき、市場そのものを形作っていく社会です。

私たちは、その大きな流れから完全に逃れることはできないでしょう。

だからこそ私は、この社会を、

「現代型の重商主義政策に翻弄されながら、それでも自分の言葉と仕事を守って生きていく時代」

として眺めてみたいと思うのです。

便利になった。

自由になった。

選択肢も増えた。

その一方で、私たちは「忘れてもらえる自由」を少しずつ失っている。

それが、ガラス張りの社会を生きるということなのかもしれません。