私は昔から仕事✖プライベート◎派
私は小さい頃から病気がちでした。
大学を卒業して最初に勤めたのは半導体商社でしたが、商社だけあって仕事は忙しく、徹夜になることも珍しくありませんでした。シャツを着替えるためだけに夜中に営業車で自宅へ戻り、寝ることもなく、再び会社へ向かう。
そんな生活を続けるうちに、心身ともに限界を迎え、私は会社を辞めざるを得なくなりました。
一方、妻は私とは正反対でした。
子どもの頃から健康で、大学卒業後はいったん経済系の出版社に勤めたものの、いろいろなことへの好奇心から会社を辞め、遠い地域へボランティアに出かけたり、アルバイトでお金を貯めてはバックパッカーとして海外を何か月も旅したりするような人でした。
特に砂漠の国々がお気に入りで、会社員として一つの場所に縛られるより、自分の興味の赴くままに生きることを楽しんでいたのです。
ところが、結婚して間もなく、妻は追突事故に遭いました。その後、腰椎椎間板ヘルニアをはじめ、首や足腰にも強い後遺症が残り、以前のように自由に動けない身体になってしまいました。
もともと身体の弱かった私に、後から身体の弱くなった妻が加わった。私たち夫婦にとって、「仕事と生活をどう両立させるか」は、単なる理想論ではなく、暮らしそのものを守るための現実的な課題になりました。
もちろん、私たちが望んでいたのは、仕事をまったくしない生活ではありません。生活に身近な人と笑い合ったり、励まし合ったり、喜びや悲しみを分かち合ったりする。
特別なことではなくても、毎日の中に小さな幸せを積み重ねていく。そんな平凡な暮らしこそ、私たちには大切でした。
だからこそ、健康を維持しながら、仕事に人生を食い尽くされないようにする。今振り返れば、妻の事故は、私たちにそのことを本気で考えさせるきっかけだったのだと思います。
そして私は、その頃から、必要なものを最小限にするという考え方を強く意識するようになりました。できることは自分でやり、必要以上に人に頼らず、何か予想外のことが起きても、その場で知恵を働かせて対応する。
人生を思い通りにするというのは、何もかも手に入れることではなく、自分たちにとって本当に必要なものを見極め、それを守るために工夫することなのではないか。そんなふうに考えるようになったのです。
ところが、実際に生活と仕事のバランスを守ろうとすると、どうしても避けられない問題があります。
それが“時間”です。
身体の動きが少し遅くなれば、それまで一時間でできていたことに一時間半かかるかもしれません。一日は誰にとっても二十四時間しかありませんから、仕事に使う時間を減らせば、その分だけ生活に使える時間が増えるように思えても、身体が疲れていれば、今度は睡眠時間を削りたくなる。
睡眠を削れば体力が落ち、体力が落ちれば仕事も生活もさらに時間がかかる。そうして、少しずつ生活全体が崩れていく。
私たちは、身をもってその怖さを知りました。
身体の調子が悪くなれば、痛みや不快感が出てくる。それだけではありません。いつもイライラしていたり、何をしていても身体の不快感が気になったりすれば、せっかくの趣味や会話まで楽しめなくなってしまう。
それでは、いったい何のために生きているのか。
だから私たちは、仕事の時間を生活に合わせることと、その仕事を続けられる健康を維持することを、セットで考えなければならないと学びました。
しかし、東京で生活しながら、十分な休みを取り、身体に無理のない範囲で働く。言うのは簡単ですが、実際にはそんなに都合よくいきません。
特に自営業を始めてみると、会社員とは別の難しさがありました。郊外で地域密着の仕事をしていても、求められる仕事の水準は決して低くありません。
しかも、自営業には「ほどほどに忙しい」という状態が意外と少ない。暇なときは極端に暇なのに、何かのきっかけで一気に仕事が押し寄せてくる。
実際、開業して数年すると、ほかの治療院では症状が多すぎて対応できないと断られた方が、次々に来院するようになりました。経験したことのない複雑な症例に向き合いながら、
「もし結果を出せなかったらどうしよう」
「地域で悪い評判が立ったら、この仕事は終わってしまう」と考える。そのプレッシャーは、やがて私自身の身体にも現れました。
全身の蕁麻疹、のぼせ、動悸、不眠。
仕事と生活のバランスを守りたいと思って始めたはずの仕事が、今度は自分自身の健康を脅かし始めたのです。
そこで、私はもう一度考え直すことになりました。
生活を守るためには、単純に働く時間を短くすればいいという話ではない。働く時間を短くしても、それを支える身体がなければ続かない。逆に、身体が元気でも、生活を犠牲にするほど働かなければ収入を維持できないのなら、それもまた自由とは言えない。
結局、私たちの生活を守ったのは、「健康」と「仕事の量」と「必要なお金」の三つを、自分たちの暮らしに合わせて調整していくことでした。
時短社会と自由に生きられる社会は同じ?
そして今、時代はさらに大きく変わろうとしています。
私が会社員だった頃には、想像することさえ難しかったことが、現実になり始めています。
AIを仕事に導入すれば、これまで人間が何時間もかけていた作業を短時間で処理できるかもしれない。ロボットが人間の代わりに働くようになれば、人間自身が現場に立たなくても、サービスや商品の提供を続けられるかもしれない。
さらにAIを使って投資判断を自動化し、資産から得られる配当や売却益などによって生活する人が増える可能性もあります。
もちろん、これらが誰にでも実現できると決まったわけではありません。けれど、もし技術の進歩によって“人間が働く時間そのものを大幅に減らせる社会”が現実になったとしたら、これは私たちが長年求めてきたワークライフバランスの、さらに先の話ではないでしょうか。
どうやって働きながら自由時間を確保するかではなく、そもそも人間は、もう働かなくてもいいというう・・・。
ところが、ここで少し不思議なことが起きます。
2026年現在、政府では、働く人の労働時間を一律に区切るのではなく、仕事の内容や働く人の状況に応じて、より柔軟に働けるようにする方向で、労働時間制度の見直しが議論されています。
たとえば、2026年9月からは、労働基準監督署が時間外労働について「月45時間以内に収めるように」と一律に求める指導を見直し、個々の事業場の実態や健康・福祉確保措置を踏まえて指導する運用に変わりました。
厚生労働省は、時間外労働の上限規制そのものを変更するものではないと説明しています。
また、裁量労働制についても、健康確保や長時間労働の防止、適切な処遇の確保などを前提に、対象の在り方を見直す議論が進められています。
もちろん、これを単純に「政府が長時間労働を復活させようとしている」と見ることはできません。実際、労働政策審議会では、柔軟な働き方を求める意見がある一方で、月45時間・年6回という現在の枠を緩めることに慎重な意見も出ています。
それでも、私はここで少し不思議に思うのです。
これからAIやロボットによって、人間がこれまで何時間もかけていた仕事を、もっと短い時間でできるようになるかもしれない。
つまり、技術の側から見れば、「人間が働く時間そのものを減らせる」時代がやってくるかもしれない。
ところが一方では、「一律に働く時間を減らす」のではなく、「もっと柔軟に働けるようにする」という方向も出てきている。
もしその「柔軟さ」が、能力の高い人や専門性の高い人には、より長い時間働いてもらう余地につながる一方で、組織には必要だけれど大きな成果を上げることが難しい部署の労働者や、人材の確保に苦労する中小企業で、仕事への意欲がそれほど高くない社員には、残業をさせない余地にもつながるのだとしたら、そこには、誰にどれだけ働いてもらうのか、を振り分けるという、別の意味も出てきます。
そして、もしAIや高性能なロボットによって、人間にしかできない仕事そのものが少なくなっていったとしたら、そこに残るのは、才能や知恵、創造性などを発揮できる人間の仕事なのかもしれません。
そうなったとき、働く場所を求める人が減る一方で、企業にとって価値の高い人材には、むしろ「もっと働いてほしい」という圧力が強くなることはないのでしょうか。
もし、そうした振り分けを可能にするための規制の見直しでもあるのだとしたら、私たちはいったい何のために技術を進歩させているのでしょうか。
人間の仕事を減らせる時代になったのに、空いた時間を再び仕事で埋めるのだとしたら、技術によって得られるはずだった自由は、どこへ行ってしまうのでしょう。
これは、単に「働く時間を短くするか、長くするか」という話ではありません。
人間が働く時間を減らすことと、人間が自分の意思で働き方を選べることは、本当に同じ方向を向いているのか。
私は、そこを一度考えてみる必要があるのではないかと思うのです。
さらに難しいのは、労働基準法による保護だけでは、働く人すべてを捉えきれないことです。会社に雇われている労働者と、業務委託で仕事をする人、個人事業主では、働き方のルールも責任の所在も違います。
会社員なら労働時間に一定の法的な枠がありますが、自営業者には「今日はここまで」と決めてくれる上司はいません。
仕事が増えれば、自分で仕事を断らなければならない。収入が減れば、自分で仕事を増やさなければならない。休めば、その分だけ売上が減る。
つまり、自分で自由に働けるはずの自営業が、本人の意思次第では、会社員以上に仕事から離れられない働き方にもなり得るのです。
そう考えると、時短勤務ができるようになったから自由になったとも、AIが仕事を代わってくれるから、もう働かなくていいとも、簡単には考えられません。
技術が人間の労働を減らしてくれたとしても、その空いた時間を社会が再び「もっと働ける時間」として回収するのか、それとも「人間が自分の人生を生きるための時間」として残すのか。
結局のところ、問題はそこにあるのではないでしょうか。
私たち夫婦が若い頃に経験したのは、徹夜してでも働かなければならない時代の厳しさでした。そして今、時代はAIやロボットによって、人間の仕事そのものを減らせるところまで来ようとしています。
それなのに、人間の側が空いた時間を、さらに仕事に使おうと考え続けるのだとしたら、技術がどれだけ進歩しても、私たちの人生はそれほど自由にならないのかもしれません。
ただ、ここで私は、もう一つ別の疑問にぶつかります。
もし本当に技術が進歩し、資本やAI、ロボットによって、人間がほとんど働かなくても生活できるようになったとしたら、その社会は果たして理想なのでしょうか。
ここから先は、単なる「働く時間」の問題ではなくなってきます。
人間は働かなくなれば幸福になれるのか
もし、十分な資本を持つことができたとしましょう。
株式などの資産から配当や売却益が入り、AIが資産管理や情報収集の多くを担ってくれる。あるいは、高性能なロボットを個人でも購入できるほど安価になり、そのロボットが人間の代わりに生産やサービスを行って収入を生み出してくれる。
もちろん、これは現時点で誰にでも実現できるという話ではありませんし、AIに任せれば投資で必ず利益が出るわけでもありません。
しかし、もし技術と資本の発達によって、本当に人間がほとんど労働をしなくても生活できる社会が実現したとしたら、私たちはそれを無条件に理想社会と呼んでいいのでしょうか。
人間は会社へ行かなくてもいい。上司から指示されることもない。決められた時間に起きる必要もなく、一日のほとんどを自分の好きなことに使える。いわば、100%プライベートを重んじることのできる社会です。
一見すると、人類が長い間求めてきた理想の姿に思えます。
ところが、私はここで少し怖いことを考えてしまいます。
働かなくてもいい社会が、必ずしも幸福な社会になるとは限らないのではないか。
“何もしなくていい”は本当に幸福?
そのことを考えるとき、私は数年前の自分自身の経験を思い出します。
3年ほど前、私は新型コロナに感染しました。
それ以前なら、インフルエンザなどで療養しているときでも、必要な買い物のために外へ出ることがありました。しかし、コロナのときは感染に対する社会的な目もあり、検査キットで陰性になるまで、私は10日ほどほとんど家から出ることができませんでした。
幸い、感染そのものから回復するまでには5日ほどしかかからなかったので、残りの5日間は、いわば「何をしてもいい時間」になりました。
考えてみれば、普段の私なら、その時間を使ってやりたいことはいくらでもあったはずです。研究しなければならない課題もありましたし、読みたい本もたくさんありました。書きたい文章もあれば、片づけなければならないことも山積みになっていました。
ところが、実際に、今は何をしてもいい。明日でも来週でもできるとなってみると、不思議なほど意欲が湧いてきませんでした。
普段なら時間がないからできないと思っていたことなのに、いざ時間が十分に与えられると、今度は急いでやる必要もないと感じてしまう。結局、何もしないまま一日が過ぎていきました。
ところが、体調が戻って仕事の準備のために外へ出られるようになると、今度は急に気持ちが変わりました。
仕事をするために身体を動かし、人と会い、決められた時間の中で行動するようになると、それまで手をつける気にもならなかった課題が、次々と片づいていきました。
「今日はこれをやらなければならない」「この時間までに準備しなければならない」という制約ができたことで、むしろ自分の中から行動する力が戻ってきたのです。
もちろん、たった一度の自分の経験だけで、人間一般について何かを断定することはできません。しかし少なくとも私自身については、自由な時間が増えれば増えるほど活動的になるわけではなく、「いつでもできる」という状態が、かえって行動する理由を奪ってしまうことがあると感じました。
働くことが人間に与えているもの
そして、ここで思い出すのが、フランスの哲学者アラン、エミール=オーギュスト・シャルティエが1925年に著した『幸福論』です。
アランの『幸福論』には、非常に印象的な人間の対比が描かれています。
舞台の一つとなるのが、スイスのジュネーヴ、レマン湖畔です。そこには、病気の療養などを目的として、世界中から裕福な人々が集まってきます。
彼らには、お金があります。
生活のために働く必要もなく、身の回りのことは人に任せることができる。高価な療養施設で十分な世話を受けながら、ゆっくりと身体を休めることもできる。現代の言葉でいえば、まさに「何もしなくてもいい生活」です。
ところが、アランがそこに見たのは、必ずしも幸福そうな人々の姿ではありませんでした。
眠れない。気分が晴れない。食欲がない。身体の調子も思わしくない。そして何より、一日をどう過ごせばいいのかわからない。いくら休んでも、いくら身の回りの環境を快適にしても、本人の中にある不満や退屈は消えていかない。
彼らは、身体を休めるために療養所へ来ているはずなのに、そこで待っていたのは、単なる身体的な病気だけではなく、「何もすることがない」という時間そのものだったのです。
アランが興味深く見つめたのは、そこでした。
一方で、同じ土地には、毎日の仕事に追われながら、自分の手を動かして働いている職人たちがいます。
彼らは、決して裕福ではありません。仕事は楽ではなく、長時間働かなければならないこともある。それでも、自分の手で道具を扱い、頭を使い、一つひとつの仕事を仕上げていく。目の前にやるべきことがあり、それに集中している間は、少なくとも「今日は何をして過ごそうか」と時間を持て余すことはありません。
そして、一日の仕事を終えれば、仲間と語らい、食事をし、酒を飲む。
仕事が終わったことそのものが、休息や楽しみを感じるための区切りにもなっている。
アランが描こうとしたのは、貧しい人のほうが金持ちより幸福だという単純な話ではありません。
むしろ、そこにはもっと根本的な問いがあります。
人間にとって、快適な環境を与えられ、何もしなくてもよい状態は、本当に幸福なのだろうか。
それよりも、自分の頭で考え、自分の手や身体を使い、簡単には思い通りにならないことに向き合い、何かを成し遂げる。そのような能動的な活動そのものの中に、人間の充実や喜びがあるのではないか。
アランが見つめていたのは、まさにこの違いだったのだと思います。
つまり、幸福とは「苦労がないこと」でも、「何もしなくていいこと」でもない。
人間には、自分自身が何かをすることで得られる充実がある。
そして、その「何かをすること」は、必ずしも大金を稼ぐ仕事である必要はありません。
自分の能力を使い、身体を動かし、頭を働かせ、目の前の課題に取り組み、何かを形にしていく。そうした実働そのものが、人間の生活に意味やリズムを与えることがある。
ここに、私は「無労働社会」を考えるうえで、とても重要なヒントがあるように思います。
もしAIやロボットによって、私たちが生活のために働く必要がなくなったとしたら、それは素晴らしいことかもしれません。
しかし、そこで、人間は何もしなくてよくなったと考えてしまうと、アランが指摘した問題にぶつかる可能性があります。
人間は、ただ快適にしてもらえば幸福になるとは限らない。自分で考え、自分で身体を動かし、自分なりの目的に向かって何かを行う。その過程そのものに、人生の充実があるのではないでしょうか。
私も20代は、とにかく“できるだけ働かずに生きたい”と考えていた
ここで、私自身の20代を振り返ってみると、実は今の若い人たちが抱えている悩みと、それほど変わらないことを考えていたことに気づきます。
「できるだけ仕事に時間を取られず、家族との時間や自分の時間を大切にしたい。でも、生活するためのお金は必要だ。だったら、できるだけ効率よく稼げる方法を探せばいいのではないか。」
これが、当時の私の考えでした。
最初の会社を激務のために辞めた私は、会社員として朝から晩まで働き続ける人生に疑問を持っていました。だからこそ、25歳の頃には、少ない労働時間で生活に困らないお金を稼ぎ、余った時間を家族や自分のために使うという生き方に強く惹かれていきました。
そして、まさにその発想から、ネットワークビジネスに手を出しました。
お金がお金を生み出してくれれば、自分が一日中働かなくてもいい。当時の私には、その仕組みがとても魅力的に見えたのです。ところが、実際に始めてみると、報酬を得るためには人脈をつくり、営業活動をし、人と会い、商品について説明しなければならない。
結局、私の目の前に現れたのは、少ない労働時間で悠々自適という生活ではなく、毎日動き回らなければならない別の仕事でした。
半年ほどで退会し、私の「楽に稼いで自由な時間を手に入れる」という計画は、あっさり終わりました。

ところが、懲りないものです。
20代後半になると、今度は18時に仕事を終えられる働き方を手放したくないという思いから、副業として株式投資にも手を出しました。
働く時間を増やさずに、資産からお金を生み出せればいい。
考えてみれば、今の私たちがAIやロボットによって期待していることと、発想そのものはそれほど変わりません。
働かずに稼ぐにはどれだけのお金が必要?
それで5年間、株式投資をやってみた感想ですが、結局のところ、株なんてものは、100円の株を100万株、1株1,000円なら10万株、1株1万円なら1万株くらい購入して、ようやく最低限の1年分の家賃を稼ぎ出せるくらいなのか……というものでした。
たとえば、100円の株を100万株買えば、投資額は1億円です。その株が1年間で6円上がれば600万円の利益になります。そこに、妻が控除内でパートでも、となれば・・・年間700万円の収入。
そのくらいあれば東京の郊外でも、貯金しながら、そこそこ生活できるわけですよ。
ところが、実際の株価は一年間ずっと上がり続けるわけではなく、上がったり下がったりしながら動きます。仮に1年間かけて100円が101円になったとしても、100万株持っていてようやく100万円の利益です。
そう考えていくと、株式投資だけで年間600万円程度の収入を得ようと思えば、私の感覚では6億円ほどの資金を株式に投じておく必要がある。もちろん、これは当時の私が実際に投資をしてみて感じた、かなり単純化したイメージですが、少なくとも20代の私には、そんな資金も資産もありませんでした。
では、私たちにとって500万円、1,000万円という貯金は何なのかと考えてみると、それは簡単に失っていい投資資金ではなく、生活を支えるための大切な万が一のための預金です。
それを全部株につぎ込むほどのリスクを背負ったとしても、元本が小さければ、そこから得られる利益は結局、お小遣い程度にしかならない。副業収入にすらほど遠いのです。
仮に、企業の投資担当に任せたとしても最終チェックは自分でしなければならないのだから、そのための株価を研究したり、経済指標を調べたり、値動きを予測したりする時間まで考えれば、私にとっては、そこに費やす労力と得られる対価がどうしても釣り合いませんでした。
それなら、本業をしっかりさせてから、別の副業に時間を使ったほうがよっぽど収益が確保できる。
そう考えて、結局、私は株式投資をやめ、本業の施術業に戻りました。
もちろん、株式投資そのものが悪いという話ではありません。ただ、私が5年間やってみてわかったのは、庶民にとっての株式投資は、それだけで生活を成り立たせるものというより、あくまで本業から得られる収入に何かを足していくためのものなのではないか、ということでした。
少なくとも20代の私には、働かなくても株で生活できるという未来よりも、まず本業でしっかり稼ぎ、その中から余裕のあるお金を投資に回すというほうが、ずっと現実的だったのです。
そして、これは少し計算してみれば、すぐにイメージできることです。自分が一年間に必要とする生活費はいくらなのか、それを株式投資だけで生み出すには、どれくらいの元本が必要なのか。
そこまで考えてみると、投資でお金を増やして、できるだけ働かずに生きたいという夢と、実際に生活を支えるために必要な資金の距離が、意外にはっきり見えてきます。
私自身は、5年間やってみて、そこで初めてそれに気づきました。
こうして振り返ってみると、私は20代から30代にかけて、できるだけ働かずに自由になりたいという考えを、かなり真面目に実践していたことになります。
そして、失敗して初めてわかったのです。
どうやら私は、「働きたくない」のではなかった。
身体を壊すほど働きたくなかったのであって、自分の力を使って仕事をし、その仕事によって生活を成り立たせることまで嫌だったわけではなかったのです。
むしろ、仕事を通して自分の能力を使い、その結果として収入を得て、その収入で生活をつくっていく。その一連の流れの中に、自分なりの手応えがある。そういう働き方なら、きちんと向き合ってみてもいいのではないか。
私が「まともに働こう」と考えるようになったのは、立派な人生観を最初から持っていたからではありません。
楽に稼いで自由になろうとして、何度も失敗した結果、ようやくそこへ戻ってきたのです。
年齢とともに仕事の意味は変わっていく
そして今、50代になって振り返ると、ここにも一つ、若い頃には見えなかったことがあります。
20代の頃は、仕事とプライベートをどう両立するかという問題だけで精いっぱいでした。ところが30代になると、自分の仕事にどんな能力を身につけ、どんな役割を担っていくのかという問題が少しずつ大きくなってくる。
40代になれば、単に働いているだけではなく、これまで身につけたものを社会の中でどう使うのか、どんな仕事で自分の存在を示すのかということも考えるようになる。
そして50代になれば、自分はいったい何のためにこれをやってきたのか、これから何をするのかという、もっと根本的な問いに向き合うことになる。
これは、20代はこう、30代はこうと人生を決めつけたいわけではありません。
ただ、社会の中で生きていれば、年齢とともに周囲から求められる役割も、自分自身が求めるものも少しずつ変わっていく。その変化から、ずっと仕事はできるだけ減らして、プライベートを最大化したいという20代の価値観だけで生き続けることは、案外難しいのではないでしょうか。
友人や同年代の人たちが仕事を通して経験を積み、自分の専門性を高め、社会の中で役割を持っていく姿を見れば、自分も何かを成し遂げたいと思うことがあるかもしれません。
反対に、自分だけがそこから離れていると、自由に生きているはずなのに、何か取り残されているような気がすると感じることだってあるでしょう。
そして、それは必ずしも競争心や見栄の問題だけではありません。
社会そのものが、年齢とともに新しい役割や能力を要求してくるからです。
20代なら、まず仕事を覚える。30代なら、経験を積み、周囲から頼られる仕事が増えてくる。40代になれば、自分の判断で仕事を動かすことを期待されるようになる。
そして50代になると、これまで身につけたものを、今度は自分なりの仕事としてどう生かしていくのかを考えるようになる。
もちろん、すべての人がこの通りに生きなければならないわけではありません。
それでも、20代の頃にできるだけ働かずに、自由な時間を最大限にしたいと考えることと、40代、50代になっても同じ考え方だけにこだわり続けることでは、意味が少し違ってくるのではないでしょうか。
働かないのではなく、働きすぎないこと
私自身も、20代の頃には「仕事より生活」と思っていました。
そして今でも、その考えそのものを捨てたわけではありません。
ただ、長い人生を歩いてきてわかったのは、生活を大切にすることと、仕事を軽く考えることは同じではないということです。
むしろ、自分の生活を守るためには、生活を支えるだけの収入を得られる仕事を持ち、その仕事を無理なく続けられる身体をつくり、そこで得た時間を自分の人生に戻していく。そのバランスが大切なのだと思います。
そう考えると、AIやロボットに期待したいことも、少し違って見えてきます。
AIによって仕事そのものをなくしてしまうのではなく、これまで人間が長時間かけていた仕事を効率化し、同じ成果をより短い時間で生み出せるようにする。
その結果として、生活を支えるだけの収入を確保しながら、仕事に拘束される時間を適正なところまで減らすことができればいい。
一日は、誰にとっても二十四時間しかありません。
その限られた時間の中で、生活を支えるために働く時間があり、家族と過ごす時間があり、身体を休める時間があり、自分の好きなことをする時間がある。その配分を、自分の年齢や身体、収入、家族の状況に合わせて調整できることこそ、ワークライフバランスの本来の意味なのではないでしょうか。
そして、その仕事が単なる生活費を得るための苦役ではなく、「自分はこの仕事をやっている」と実感できるものであれば、そこには生きがいも生まれてくる。
私は、20代の頃に、できるだけ働かずに自由になりたいと考え、実際にその方法を探して失敗しました。
だからこそ今は、働かなくても生きられる社会そのものを否定したいわけではありません。
生活のために身体を壊すほど働く必要がなくなり、AIやロボットによって仕事に必要な時間を短くできるなら、それは大きな進歩でしょう。
ただ、その先にあるのは「何もしなくていい人生」ではなく、「自分が生きていくために必要な仕事を、自分の人生の中に無理なく置くことができる人生」なのではないかと思います。
人は、働くために生きるのではない。
けれど、生きるために働くことを完全になくしてしまえば、人間から仕事を通して得られる収入だけでなく、社会の中で自分の力を使い、その結果を受け取る機会まで失われてしまうかもしれない。
だからこそ、AI時代に本当に考えるべきなのは、どうすれば働かずに済むのかだけではなく、どうすれば、生活を支える収入を得ながら、働きすぎず、それでも自分が生きがいを感じられる仕事を持ち続けられるのかということなのではないでしょうか。
それならば、AIによって減らすべきなのは「働くこと」そのものではなく、人間が生活のために費やさなければならない、必要以上の労働時間なのかもしれません。
