現在、通院されているお客様の予約施術のみ承っております⇒

日本人は本当に「我慢の民族」なのか

揉む文化の歴史が示す身体文化の真実

腸内環境を整えるには、ビフィズス菌が大切だと言われます。

多くの人は、そこでヨーグルトを思い浮かべるでしょう。

けれど、日本人にとっては、昔から食べ続けてきたぬか漬けの方が体に合う。そんな話を耳にしたことがあるかもしれません。

理由は難しくありません。長い時間をかけて慣れ親しんできたものは、無理なく体に馴染みやすいからです。

では、同じ問いを身体に向けてみたらどうでしょうか。

――日本人の筋肉を
――長い歴史の中で柔らかく保ってきた方法は、何だったのでしょうか。

近年、地方の博物館や民俗資料館を訪れることがよくあります。時代は問わず、太古から近代まで、人はどのような身体の使い方をして生きてきたのかを見ていくためです。

本やインターネットでもある程度は想像できますが、実際に資料を見ていくと、人間の営みの動作は想像以上に多岐にわたることがわかります。

また、漢方の学びを進める中で気づいたことがあります。

現代では東洋医学というと鍼灸が中心で、食材や薬は補助というイメージを持たれがちです。

しかし本来は逆でした。食事や薬など、口から入るもので体を整えることが基本であり、鍼灸や施術はそれを助ける役割だったのです。

そう考えると、筋肉を柔らかくし、血行を良くするという一点においても、“口から入るもの”こそ身体の土台であることが見えてきます。

人の体は、口から入るもので作られます。そして、その体がどのような動きを積み重ねてきたのか。その出来具合と動作の重なり方によって、不調や病の形は決まっていきます。

太古の昔から日本人が食べてきたもの、そして身体の使い方を調べることには、やはり意味があるように思えるのです。

調べていく中で見えてきたのは、筋骨格の不調の原因が非常にシンプルだという事実でした。

・過重な負荷
・長時間の労働
・同じ姿勢を取り続けること

これは現代のデスクワークだけではありません。縄文時代から続く、人間の営みそのものでもあります。

つまり、筋肉が硬くなる原因は、今も昔もほとんど変わっていないのです。

だから、こりは現代病ではありません。人が身体を使って生きてきた以上、こりは常に存在してきました。

そしていつの時代も、人は本能的に快適に動ける身体を求めます。

仕事や家事、日々の暮らしの中で身体を使い続けるうちに、筋肉は少しずつ硬くなっていきます。多くの人は、その変化に気づかないまま、長い年月をかけて我慢してきた体を抱えるようになります。

であれば当然、こりを解消し、動ける身体を取り戻すための方法が、長い時間をかけて選び残されてきたはずです。

では、日本人が何千年も使い続けてきた「こり解消のメソッド」とは何だったのでしょうか。

それは特別な道具でも、高度な理論でもありません。

・触れる
・押す
・揉む
・なでる
・動かす

硬くなった筋肉を直接ゆるめ、滞った血を巡らせる。そうなれば関節は自然に動きを取り戻し、人は再び動けるようになります。

つまり、筋肉を柔らかくする単純な揉みほぐし行為という、このあまりに素朴な方法こそが、日本人の身体を長い歴史の中で支え続けてきたのではないか。

それが、この探求の出発点です。

人は、身体が動かなくなったとき、まず理論を求めるでしょうか。それとも、触れて、緩めて、血を巡らせる方法を探すでしょうか。

歴史を振り返ってみると、その答えは驚くほど一貫しています。

人類は医学が成立するはるか以前から、「揉む・押す・なでる」という行為によって、動けなくなった身体を回復させてきました。

筋肉が硬くなり、血の巡りが滞れば、人は動くことができません。逆に言えば、硬い筋肉が緩み、血行が戻れば、人は再び動けるのです。

この極めて単純な原理を、太古の人々は理屈ではなく、身体感覚として知っていたのかもしれません。

縄文時代の人骨には、重度の外傷や変形を負いながらも長期間生存した痕跡が数多く見られます。これは、何らかの介助や身体ケアが日常的に行われていたことを示しています。

刃物も侵襲的医療もない時代、人が人の身体に対してできることは限られています。

・揉む
・押す
・さする
・動かす

動きを回復させるために、筋肉を揉んで押して関節を動かして身体全体をほぐす、つまり、現代で言うところのリハビリ的身体操作です。

奈良時代になると、中国から体系化された医学が日本へ流入してきます。薬物療法、針(鍼)、そして按摩です。

ここで2つほど興味深い疑問が浮かびます。

1つ目の疑問は、なぜ日本は、701年の養老令において「按摩」を制度として位置づける必要があったのでしょうか。

縄文時代からの流れから、日本にはすでに、身体を揉み、押して、なでることで不調を整える民間の体ほぐし文化が存在していました。

つまり日本には、中国医学が入る前から「体を揉んで整える文化」がすでに存在していた可能性があるのです。

ならば、何のために按摩をわざわざ制度化したのでしょうか?

中国からもたらされたのは、その身体操作技法そのものではなく、それを説明し体系化する医学理論だった可能性があります。

つまり、日本人はもともと身体感覚として「筋肉が硬くなれば動けなくなる」「揉めば血が巡り、動けるようになる」という事実を知っていたのでしょう。そこに中国医学の理論が重ねられ、「按摩」という医術として整理されたと考えるのが自然ではないのか?

もしそうだとすれば、養老令における按摩制度化とは、外国の医術を導入したというよりも、すでに日本社会に存在していた体ほぐし文化を、国家制度の中で整理した出来事だったとも考えられます。

この視点に立ちますと、日本において「押して揉んでほぐす」という行為が、千年以上にわたり生活文化として残り続けてきた理由も理解しやすくなります。

外来の医術だから残ったのではなく、日本人の身体と生活に、実際に役に立っていたから残ったとも考えられます。

そして2つ目の疑問は、同時に入って来た針(鍼)はどうなっていったのでしょうか?

針(鍼)は存在し続けたものの、平安期の丹波康頼による『医心方』以降も上流階級の中での小さな研究にとどまり、民衆を中心にした生活文化として大きく広がるにはかなりの時を要しました。

一方で、「押して揉んでほぐす」という行為は鎌倉時代に入っても僧侶の医療として使用されるなど民間の生活の中に深く残り、疲労回復や身体ケアとして受け継がれていきました。

ただし当時の揉む技術は、高度な医療技術というよりも、メンテナンスとしてのからだケアとして行われることが多かったようです。

そして江戸時代に入りますと、「押して揉んでほぐす」は文化として大きく成立していきます。

当時の江戸は人口100万人を超える世界最大級の都市でした。この巨大都市には、身体を揉む職業が複数の形で存在していました。

まず中心となったのが、盲人の職業団体「当道座」に属する按摩師です。彼らは幕府公認の専門職として活動し、教育体系を持つ職業組織を形成していました。

つまり、江戸の按摩は単なる街の仕事ではなく、国家に認められた専門職だったのである。

そして十七世紀後半になると、さらに象徴的な出来事が起こります。

盲目の鍼医 杉山和一が、江戸において鍼灸と按摩の教育施設「鍼治講習所」を開設したこと。これは集団教育によって技術を伝える施設で、現在の職業学校に近い役割を持っていました。

さらに、町を歩きながら客を取る流し按摩も江戸の風景の一部でした。杖をつき笛を吹きながら町を回り、呼び止められるとその場で肩や腰を揉む。

客は家に呼び、肩や腰を揉んでもらう。遊郭や宿屋でも按摩の需要があり、疲労回復や保養の方法として広く利用されていました。

揉み料も定められており、十九世紀頃の江戸では一回およそ四十八文ほどだったと記録されています。

また、湯治場や江戸の銭湯にいた三助という存在も数多くいました。

湯治研究の中で発見した仕事の名前ですが、三助は湯屋の従業員で、背中を流したり体を洗う手伝いをする仕事でしたが、実際には肩や背中を揉むことも多かったとされています。

報酬は銭湯利用客からのチップでした。その感覚はおそらく今で言ったら15分、20分の激安マッサージと同じ感覚でお金が払われていたという感覚が近いでしょう。

とにかく、入浴のついでに体を揉んでもらうという習慣は、庶民にとってごく日常的な疲労回復法でした。

つまり江戸の都市には

・専門の按摩師
・流しの民間按摩
・銭湯の三助による簡易「押して揉んでほぐす」サービス者

という「揉み手」の施術者が町に多数存在し、客は日常的に体を揉ませていた状況が成立していたと考えられます。

そして、この規模と制度を考えると、江戸は世界史的に見ても極めて珍しい「手技療法都市」だった可能性が高いのです。

正確な人数は記録されていないが、江戸の町には、数千人規模の「揉み手」が存在していた可能性があります。

仮に江戸の町の人口を100万人とし、按摩師や三助などを合わせて数千人規模の施術者がいたとすると、人口に対する割合は数百人に一人が身体を揉む職業だったという計算になります。

これは世界史的に見ても、かなり珍しい都市構造だった可能性があります。

また、人口規模を考えると、その密度は現代の都市のリラクゼーション店と比べても決して少ないとは言えません。

むしろ、生活の中に自然に存在していた点を考えると、江戸の方が「揉む文化」の密度は高かった可能性すらあります。

つまり江戸の町は、単に按摩が存在した都市ではない。

体を揉むという行為が、医療・職業・生活習慣の三つの層にまたがって存在していました。これは、体を回復させながら生活する社会構造です。

この社会構造から見える姿は、日本人は「我慢して働く民族」だったのではなく、回復しながら働く民族だったのかもしれない可能性です。

では、なぜ、これほどまでに「押して揉んでほぐす」文化が民衆に広く浸透していったのでしょうか?

その理由は、日本の労働環境にあったのかもしれません。

古代から近世にかけての日本の労働は、

・長時間
・中腰
・前屈姿勢
・同じ筋肉を使い続ける作業

という特徴を持っていました。

このような体の使い方は、筋肉を大きくするよりも、張りつめさせ、硬くし、動きを失わせます。

肩がこったとき、人は無意識に肩を揉みます。腰が重いとき、腰をさすります。足が疲れたとき、ふくらはぎを押します。

このごく自然な行為こそが、日本の身体文化の中心に長く存在してきた可能性があります。

そして、この考えをさらに強く裏付けるものがあります。それは、日本人の体の歴史です。

日本人の体は、世界の中でもかなり特殊だと言われることがあります。

例えば、江戸時代の運送システムです。荷物の輸送は「飛脚」という仕組みで行われていました。

一人の飛脚が約10kmを走り、次の飛脚に荷物を渡すリレー方式で、大阪から江戸まで約600kmの距離を、わずか4日ほどで荷物が届けられていたのです。

しかも、これは馬車ではありません。人が走って運んでいたのです。

これは現代のフルマラソンを毎日走り続けるようなものです。

さらに興味深い例があります。

浮世絵師として有名な葛飾北斎は、83歳のとき、江戸から小布施まで約250kmの道のりを歩いて移動しています。

しかもその距離を9日で歩き切っています。

それだけではありません。北斎は89歳までの間に、江戸と小布施を徒歩で三度も往復しています。

現代の私たちの多くは、同じ年齢で同じことができるでしょうか。おそらく難しい人がほとんどでしょう。

つまり、高度な文明以前の日本人は、私たちよりもはるかに過酷な肉体労働を日常的に行っていたにもかかわらず、それでも生活を続けることができていたのです。

長時間の労働。繰り返される筋肉の負担。当然、こりや疲労は大量に蓄積していたはずです。

結果として生じるのは

・痛み
・だるさ
・可動域の低下

つまり、病気ではないが動きにくい体です。

多くの人が、働きながら、暮らしながら、こうした状態を抱え続けてきたはずです。それでも日常生活が破綻しなかった理由は何でしょうか。

考えられる一つの答えは、筋肉を柔らかくし、血行を良くする技術が日常の中に存在していたということです。

こうした身体に対しては、薬や鍼灸の一点刺激よりも、面圧で筋肉を押しながら血を巡らせる方法の方が体感的な改善を生みやすかったのでしょう。

この視点に立つと、現代の揉みほぐし、リラクゼーションブームは、単なる癒やし産業の流行とは言えません。

むしろそれは長い文化の流れの中で、「動けない体」を、再び日常に戻すための、最も古く素朴な方法があらためて姿を現している自然な回帰とも考えられます。

・長時間労働
・同一姿勢
・運動不足
・慢性的な緊張

現代人の体もまた、確実に動きにくい方向へ追い込まれています。

そして多くの人が、気づかないまま我慢してきた体を抱えています。

このとき人々が求めるのは、難解な理論ではありません。

「今、この身体が楽になること」です。

・揉む
・押す
・なでる

この単純な行為ほど、説明不要で体感が明確な方法はありません。

それは高度な医療ではないかもしれません。しかし、筋肉と血行に対して最も直接的な方法でもあります。

そしてここに、現代社会が抱える一つの空白が見えてきます。それは医療とリラクゼーションの狭間にある症状です。

病気と診断されるほどではありませんが、確実に体は動きにくくなっている体の状態です。

医療はそこまで踏み込みません。なぜなら、じっくり揉みほぐすといった所要時間のかかる技術は、まず保健医療として成り立たないからです。かといって、リラクゼーションは治療を名乗れません。

その結果、現在では、多くの人が我慢してきた体を抱えたまま生活を続けています。

しかし、この領域こそ、人の体が本当に求めているケアなのかもしれません。

太古の日本人は、それを医学としてではなく、生活の知恵として知っていました。動ける体を保つこと。それは理論よりも先に、手によって支えられてきたことが伺えるのです。

そして現代になっても、人は変わりません。人はやはり、動ける体で生きたいのです。

その願いがある限り、「押して揉んでほぐす」という、あまりに素朴な行為は、これからも静かに必要とされ続けるのでしょう。

もしかするとそれは、日本人の体が、千年以上の暮らしの中で覚えてきた「回復の方法」なのかもしれません。

理論よりも先に、手が知っていること。それが、いまも変わらず残っているのです。

江戸の人々は、決して我慢する民ではありませんでした。

さまざまな地方の民俗資料館や博物館に展示されている書簡をみると、米を出せ、税金を減免しろ、借金を帳消しにしろ、田んぼに水を引いてくれ・・・などなどといった陳情をあげてあげてあげまくっています。書簡と言えば”陳情”しかないというくらいです。

そして、陳情が聞かれない時は暴動なり一揆なりという形で声を上げでいました。首謀者は処刑されることがわかっていても、「なんとかしてくれ!」と行動を起こしていたことが歴史で多数伺えるのです。

割とすぐに声をあげていた昔の人の気質を考えると、当然のことながら、体が不調で生活がままならないとなれば、我慢せずに対処しているでしょう。

だから意外にも、何においても本当に我慢しているのは、むしろ現代の私たちなのかもしれません。

払うものを多くされ、社会保障は減らされ、税金や物価が上がっても、理不尽な法律が可決されても、私たちは声を上げることがなかなかできない社会状況にいます。

なら、せめて体だけでは解放されたいものです。

では、この文化を少し大きな視点から見てみましょう。

推測するに、江戸は、もしかすると世界史の中でも最も「身体を揉む文化」が密集した都市だったのかもしれません。

つまり江戸の町は、単に按摩が存在した都市ではない。身体を揉むという行為が、生活そのものの中に組み込まれていた都市だったと言えます。

いつの時代でも人はやはり、動ける身体で生きたい欲求があるものです。

そして、もともと日本人は我慢する民族ではなく、本当は、回復しながら生きる文化を持った民族だったからこそ、「押して揉んでほぐす」という、あまりに素朴な行為が、千年たっても消えなかったのだと思います。

動ける体を保つためにほぐしてもらう習慣が昔からあったのにも関わらず、なぜ現代の私たちは、これほどまでに我慢を続けて、痛みのひどい動きづらい体を放置しするのでしょうか。

それこそが、この国の身体文化が今、問いかけていることなのかもしれません。

世界には古くから多くのマッサージ文化が存在します。

中国には推拿があり、タイにはタイ古式マッサージ、西洋にはスウェディッシュマッサージがあります。つまり「身体を揉む・押す」という技術そのものは、決して日本だけのものではありません。

しかし、世界史的に見ると興味深い違いがあることがわかります。

多くの地域では、マッサージは医療や宗教、あるいは高級なリラクゼーションサービスとして専門化され、一般の生活習慣からは次第に離れていきました。

身体を触れる行為は制度の中に取り込まれ、日常生活の中で自然に行われる文化ではなくなっていったのです。

ところが日本では事情が異なりました。江戸時代、「押して揉んでほぐす」は町の中に広く存在し、人々は疲れれば揉みほぐされ、痛めば押されるという行為を日常の中で繰り返していました。

その文化は、後に指圧やあん摩マッサージ指圧として制度化されながらも、家庭の中の「肩揉み」や「腰を押す」といった習慣として現在まで残っています。

つまり日本では、揉む技術が単なる治療技術としてではなく、身体の不調を自分たちで調整する生活文化として社会に深く根付いたのです。

世界史の中で見れば、日本が特別なのは技術の有無ではありません。

日本では昔から、肩を揉む、背中を流す、子どもをおぶるなど、人の身体に触れる行為が生活の中に自然に存在していました。

身体に触れ、整え合うという行為が、いまなお生活の中に残っていることなのです。

そしてそれは、医療でもサービスでもありません。人が人の身体を気遣う、きわめて素朴な文化のかたちなのです。

もしかすると、日本に「押して揉んでほぐす」という文化が残った背景には、こうした触れる文化の存在もあったのかもしれません。